小説
二十八話



 Sランクに上り詰める冒険者、それも戦闘狂であるならばグレンはこれまで重傷を負ったことが当然ある。
 しかし、そんな過去の記憶を全て引き出しからひっくり返したとしても、この瞬間の痛みには到底届かないだろう。
 激痛という言葉では追いつかない。
 地獄の苦しみとはこのことかとのたうち回りそうになる体を必死に抑えるしかできない。そうできることが大したものだとヴィオレが感心しているなど知らず、グレンは歯を食いしばる。食いしばろうとして、口の中の異物と異物から溢れる鉄さびの味に一瞬理性を取り戻す。
 グレンの口の中には未だにヴィオレの指が突っ込まれている。ヴィオレはグレンが衝動のまま噛み千切ることを恐れた様子もなく、歯を立てられ皮膚を突き破られた痛みに呻くこともない。
 ヴィオレはグレンの千切れた腕へ集中していた。
 どれだけ高価な回復薬でも、優秀な外科医がいても、今のグレンのようにずたずたに千切れた腕を繋ぐことなど不可能だ。
 冒険者であれば先を閉ざされたのと同義であり、絶望して間違いない。
 だが、グレンの心が暗闇に暮れることはなかった。
 片腕一本なかったからといって、強者と戦いたいという気持ちまで失くしたわけではない。今までできたことができなくなっても、できなくなったらできるようにすればいい。必要に駆られたからこそ飛躍する能力がある。隻腕であっても両腕健在のときよりも高みへ上ればなにひとつ問題はない。
 ヴィオレが聞けば脳筋と呆れ、そして称賛するだろう思考をグレンは当たり前に持っていた。
 そう、グレンは決して己の規格外の相棒を頼りにしていたわけでも、期待していたわけでもない。
 ヴィオレがグレンの腕をどうにかしようとしている現状は僥倖だ。
 ただ、その僥倖は果てしない苦痛を伴った。
 まず、飲まされたヴィオレの血が臓腑を灼いた。どれだけ強烈な酒を飲んでも感じたことのない熱が腹の中で燃えたと思えば、それが全身に巡る。無理やりなにかをこじ開けられるような、暴かれるような、事前の会話ではないが強姦でもされているような気分だった。もちろん、最悪という意味だ。
 加速した熱が前触れもなく消えたと思った瞬間、指を抜いたヴィオレが呟いた。

「そなたは、負けず嫌いか?」
「……っは、この、状況、がっ、くっそ腹立たしい、くら、いには、なっ!」
「叩ける口があるのは結構。さて、これより更に辛くなるが……私は過去その何倍もの苦痛に堪えた」
「音、上げちゃう?」
「……上等だ、この野郎」

 重傷の相手を煽ってくる相棒にグレンは凶悪な笑みを見せる。これが終わったらお前覚えとけよと言葉にしなくても伝わる力強い笑みだ。
 ヴィオレは無言で再びグレンの口に指を突っ込んだ。同時に爪を立てる勢いでグレンの腕を掴む。
 視界が弾けそうになる痛みを合図に地獄は始まった。
 幾千、幾万の小さな虫が傷口から肉を抉り始めたような感覚。肌を細い焼き鏝でなぞられているような痛みが傷口から腕、既に物理的に感覚を失ったはずの指先にさえ及ぶ。
 再び熱が燃え、それは腕へと殺到する。千切れた腕と腕を痛みで繋ぐ虫を周囲ごと焼き尽くし、焦げた肉と肉、神経と神経を無理やり接合しているのでは、と想像しそうになる壮絶な痛みだ。
 だが、ヴィオレに向かって肯定した負けず嫌いがグレンから悲鳴も抵抗もさせない。
 常人であれば、間違いなく叫び、吐瀉物を噴き出し、陸に上げられた魚のように飛び跳ね、白目をむいて意識を失うだろう。
 それなのに、グレンは自身を見下ろすヴィオレの額に脂汗が浮かんでいるのを見て、口角を上げて見せた。
 折れていた腕は千切れた腕に比べればぬるすぎる熱が撫でたのと同時に治っている。その腕を伸ばし、グレンは指先でヴィオレの汗を拭った。
 千切れた腕が万力で締め付けられたように痛み、固定される。
 体幹に繋がる腕から千切れた腕の指先まで、なにかが伸びて貫いていく。思わず指先が跳ねた。
 跳ねた。
 分離した指が動いた。

「再構築まで残り二十パーセント……十二パーセント…………三パーセント……」

 ぶつぶつと呟くヴィオレがグレンの口から指を引き抜く。散々に噛み締めたせいで血だらけだ。

「再構築、完了……」

 そのままヴィオレはベッドの下へ座り込んだ。いや、正確には倒れこんだ。横倒しになった体を寝返りで仰向けにし、荒い呼吸を繰り返す。

「……治したぞ」

 ぶっきらぼうにも聞こえるヴィオレの声に、小さな虫が全身に分散してそのまま消えていったような感覚からようやく自分を完全に取り戻したグレンは、千切れたはずの腕に力を入れる。
 腕はあっさりと思うがままに動いた。
 痛みも熱もどこにもない。指を曲げる仕草も滑らかに、損傷した箇所を眼前に翳しても傷ひとつない褐色の皮膚に覆われている。

「多少、脆くなっているが……栄養をとれば直に戻る」
「筋力は」
「そなたの記憶通りだ」

 記憶? とグレンは視線を横にやるが、当然ベッドの下は見えない。
 だから、ヴィオレの様子も分からないのだが、応えがないことと聞こえてきた寝息、なによりも再び枕元へ顔をだしたマシェリが小さな指先を唇に当てたことで察した。

「……ありがとさん」

 外はどうなっているだろうか。
 グレンはもう戦えるが、再び出て行って残った魔物の討伐をする気にはなれなかった。
 それは狂病という難度が失われた後片付けでしかないせいでもあるし、感じたことのない苦痛に疲労したせいでもある。全身に伸し掛かる倦怠感はひどく重たい。
 だが、グレンはその億劫さを押しのけて、ぐっしょりと冷や汗脂汗に濡れた体を起こした。
 ベッドの下へ治ったばかりの腕を伸ばし、自身よりも細身の体を引きずり上げる。乱雑な仕草だったが、ヴィオレは一瞬目を開けただけですぐに濃い紫の眼差しを瞼で閉ざした。
 男二人でひとつのベッドとはなんとも寒い光景だ。
 だが、流石に部屋の移動をするのも、床で寝るのも大儀で仕方ない。
 ベッドから落ちない程度にヴィオレを引き寄せて、グレンもまた緑の目を閉じた。
 二人分の寝息が落ちる部屋のなか、小鳥のような声がそっと囁いた。

「おやすみなさい」

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あきゅろす。
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