小説
二十二話



 まるで耳元に羽虫が通り過ぎたような不快感。住処周辺の異変は気付いていた。けれど、そんなことは絶対上位者である彼女にはどうでもよくて、ただ我が子が眠る卵のことだけが気がかりで。
 神経質になっていたところに続く不快感、それが突如激増した。
 苛々して、苛々して、鬱陶しくて、煩わしくて、なにもかも壊してしまえばすっきりするのではないかしら。
 そんな自らの思考にはっとした彼女は恐怖する。
 訳の分からない衝動、もし、これが自身の制御を外れたら。
 考えた瞬間には叫んでいた。
 守って。
 守って。
 どうか、守って。
 かわいい私の子。
 私の坊やをどうか守って。
 私自身から守って!!
 ドラゴンにだけ聞こえる応えの声に安堵したのが悪かったのか、気持ちが緩んだ彼女の頭に走る雑音。
 一瞬、目の前が暗くなった。
 再び眼が光を、現実を取り戻したとき、彼女の目の前にあったのは――



 狂ったような叫び声に眉を顰めたグレンは、空を仰いで一転、残虐さすら感じられる好戦的な笑みを浮かべる。
 来る。
 間違いなく来る。
 待ち望んでいた強者が来る。
 グレンの姿はリフショール寄り、森との堺にあった。グレンが思う存分動きまわるのに市街地という場所は不向きだし、そもそこまで「近づける」べきではない。それに、渦炎のグレンの存在は人々にとって頼るべき存在になるだろう。縋られるのも、釣り合わぬ実力のまま支援されるのも、グレンには煩わしい。
 支援。
 グレンの脳裏に浮かぶ弓なりになった濃い紫の目。
 この場にヴィオレの姿はないが、ドラゴン襲来を前に彼は自身が採れる最良を採るだろう。
 グレンへ――したように。
 空気が揺れる。
 森から、いやその奥の山から気配が近づく。
 一条の光が夜空を貫いたのは突然だった。
 山の頂上から空へと伸びた光は一瞬の収束を見せ、爆音とともに山の頂を吹き飛ばして地面を揺らした。
 恐らく多くの人々が衝撃に顔を伏せた中、グレンは確かに目視する。
 爆煙を切るように空へと舞い上がり、月の影となった美しき巨体を。

「……はっ、上等」

 叫び声。狂ったような、いや、事実狂ってしまったのだろう。言語として伝わらぬ声をさらに支離滅裂に意味をなさずひたすら他者へと叩きつける声が空へと響き渡る。
 ドラゴンだ。
 荒れ狂うドラゴンが空にいる。
 住処が最早安全地帯でないことに、魔物も動きだした。
 どれほどいるかも定かではない魔物の群れが地面を揺らし、四方八方へ走り出す。当然、グレンのもとへも、その後ろにあるリフショールへも。
 既に抜剣状態にあったグレンの構える剣、稀有な全属性の魔石が光る。どれほどの種類の魔物がいるか、どれほど抗魔力に長けた魔物がいるか。定かではない状況でこの剣のなんと頼もしいことか。これを得るために、これを完成させるために、その手を貸してくれた相棒はいまどうしているだろう。どうしていたっていい。ヴィオレはグレンのような戦闘狂ではないのだ。楽しんではいないだろう。けれど。

「どうせ、ばかみたいなことやってんだろ」

 ばかだ、とありったけの賛辞を込めてグレンは言う。
 異世界は帝国軍人たる「魔法使い」、その技を間近で見られないことがほんの少し惜しい。聞けば、あの少女人形はもっと惜しめと騒ぐだろう。
 まさに無拍子、予備動作もなくグレンは疾走る。走りながら一閃。骨肉断つ手応え、グレンの後ろに両断された四足の魔物が朽ちた。
 続けて一閃、二閃、舞い踊る動きにグレンの髪が渦を巻く。
 グレン自身が好く名ではないけれど、渦炎という名はグレンの姿をよく表す名であった。
 数は多く、また狂病に侵されているせいで思考がままならぬのか、グレンを襲わず走り続ける魔物もいる。迷宮ではない以上、決められた範囲などない。グレンには当然手の届かない場所がある。だが、自身を越える魔物をグレンは追わない。
 自負しているからこそ。
 グレンは誰でも相手できる魔物に一々向き合い、構いなどしないのだ。
 ドラゴンが再び叫び声を上げる。リフショールのほうも騒がしい。恐らく、別方向からも魔物が迫っているはずだ。リフショールにいる冒険者と憲兵は全て迎撃準備にあるだろう。
 きっと、それだけでは狂病に侵されたAランク以上の魔物の群れには苦戦を強いられる。壊滅を考えることは現実的だ。それなのに、グレンにはリフショールが魔物の狂乱に蹂躙されるなどと思わない。そうなったとしても「あーあ」とでも言って済ませる自身は容易に想像つくが、そうならないのだとグレンは確信している。
 その予感を、いっそ信頼を、彼は応えて守ってみせるのだ。
 狂病引き起こすほど不安定だった大気中の魔力が、突如湧き上がった「固有魔力」によって圧される。
 グレンは笑う。笑って呟く。

「やっぱり、ばかげてんじゃねえか」

 何処の世界に自然界の魔力を圧倒するほどの「固有魔力」を持つ人間がいるのか。たった一人の人間がそれを行うのか。
 問われたならば、グレンはその答えを知っている。
 異世界の帝国に、その存在はあったのだ。
 リフショールを囲むように何茎もの淡い紫を帯びる光の柱がそびえ立ち、柱同士を繋げるように紫電が走ったかと思えば柱に沿ってワードが円環となり廻りだす。
 それは庇護の腕と呼ぶにはあまりにも暴力的だった。一周した円環から落ちるはらはらと光るもの。美しくさえ見えるのに、降り注ぐそれは目を楽しませる風景などではなく高出力の魔力弾だ。迫る魔物を討ち滅ぼす弾幕はリフショールへの侵入を拒む。
 最早、数に圧される心配はなく、弾幕を堪えて飛び込んだもの弾幕を掻い潜ったもの、多いとはいえない魔物を狩り尽くせばいい。リフショールからのざわめきが次第に歓声へと変わるのを聞きながら、グレンは魔物を屠って空を仰ぐ。
 ぐるり、ぐるりと上空で旋回するドラゴンは徐々に高度を下げている。あのドラゴンが呼んだ仲間はまだ来ない。まだ、なだけ。もうすぐ来る。きっと来る。

「さっさと来やがれッッ!!!」

 グレンの声に応えるように、咆哮を上げたドラゴンが急降下した。
 ああ、その背後、いまだ芥子粒ほどの影も見せないけれど、悲痛な仲間の声に応える存在が確かに迫っている。

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