小説
四話
準秘境とはいったもので、緑豊かでは済まない自然環境を馬車の小窓から眺めるヴィオレは興味深い。祖国にいた頃、魔法薬の開発をしていてうっかり希釈が足りないまま廃棄した薬品が原生林の一部を枯らして大問題になったことがあった。大惨事というほかない光景にヴィオレはいっそ笑えてきて「これは酷い」と腹を抱えたものだが、すぐに責任追及を逃れるための証拠隠滅をし、原生林再生のための研究で見事それを果たして逆に称賛されることに成功。もっとも、周囲は証拠がないだけで絶対にヴィオレの仕業だと確信していたので、称賛の言葉も随分厭味ったらしかったものだ。
懐かしいな、と口元をやや綻ばせたヴィオレに、勘のいいグレンは「絶対にろくでもないこと考えていやがる」と確信して呆れていたが、不意に感じた気配に眉を寄せる。
「おい、魔物が近い」
「なんですと?」
グレンの言葉にマーシャンは驚き、御者へと声をかける。彼は随分と冒険者というものに慣れているようで、外を確認したわけでもないグレンの言葉を一々疑ったりなどしない「良い依頼人」だ。
外を眺めていたヴィオレは静かに目を閉じて知覚範囲を広げる。走る馬車の中であっても範囲を広げる術式に粗はない。
「三十体ほどの群れね、多分マンティコアだわ」
「あいつら速いが……いけるだろ」
グレンは意味深な視線をヴィオレに送り、馬車を止めようと提案していたマーシャンを制止した。
通常、魔物が現れれば振り切ろうなどと無茶なことは考えずに馬車をとめて護衛が迎え撃つもので、流石にマーシャンは驚いたがグレンが平然とした様子であることに「では、速度はそのままに」と頷いた。これが渦炎の言葉でなければ彼ももう少し躊躇したのかもしれないが、名声とはなんとも役立つものである。
走る馬車のドアを開き、ヴィオレは身を乗り出す。グレンが軽く襟首を掴んだので、突然大きな揺れがあっても外に転げることはないだろう。
知覚範囲の中、マンティコアの動きや速度を計算してヴィオレは術式を発動する。
詠唱や魔法陣の展開をした様子もなく馬車のなかに身を引っ込めたヴィオレにマーシャンが目を白黒させるが、御者が小さく上げた悲鳴に慌てて確認すれば馬車の前方、道を開けるように左右へ寄って横たわるマンティコアの死骸が積み重なっていて息を呑んだ。
「あらあら」
同乗する冒険者でありながら意見を訊かれなかったことになんの不満もない様子で微笑んでいたクウランクッカが小窓からマンティコアの死骸を見て、どこか暢気そうにも聞こえる声を上げる。そっと片頬に手をあてる仕草はどこに触れればもっとも美しく顔が映えるかを熟知しているようで、そっとヴィオレに向けられる眼差しは情熱的だ。
「周囲が荒れた様子がないようですけれど、どんな魔法をお使いになりましたの?」
一般的な自然属性ではどうしても周囲に影響が残るものだが、既に通り過ぎたマンティコアの死骸は何かに貫かれたような痕があるだけで、その周囲の木々や地面はおかしなところがなにもない。クウランクッカが不思議がるのも当然だ。
「影よ」
マシェリが短く答える。愛らしい少女人形の小鳥のような声にクウランクッカは「まあ!」と感動したように頷いた。
影は基本的にどこでも発動できて痕跡も残さないことからヴィオレは多用している。他の属性でも痕跡を残さないようにすることはできるが、影と違って「生成と痕跡を残さないための一手間」が必要なので、影で間に合うならば影で済ませるのがヴィオレだ。
「渦炎と呼ばれる殿方と同乗できたのも幸運でしたけれど、あなたのような魔法使いをお目に出来たのも素晴らしい幸運ですわ」
色香芳しき美女に熱っぽい眼差しを向けられても、グレンは顔色一つ変えない。時折女を買っているので戦闘でしか興奮しないわけではないのだが「就業中」であることとクウランクッカが一時的とはいえ「同僚」なのでそちら方面に繋がらないのだ。また、美しいことに越したことはないが、発散できればそれでいいと思っている節があるのも淡白な態度の原因だろう。それに、渦炎ほどの名声になると下手に同業者へ手を出すと後々面倒だというのが最大理由だと同じく顔色を変えないヴィオレは冷静に分析している。
グレンにしろ、ヴィオレにしろ、行動理由に面倒の回避が大きく関わる人間だ。
「間もなく集落へつきます」
だんだん道なき道を走っていた馬車が再びかろうじて道と呼べなくもない道を走りだしてから少し、マーシャンが告げる。
準秘境に住まう少数民族、彼らには彼ら独自で発達した知恵があるもので、ヴィオレにとっては興味惹かれるものだが得てして警戒心も並行するので初対面で学び取ろうとするのは不可能だろう。マーシャンなら何か知っているかと思うが、有能な商人は口の堅さが必須だ。一時的に契約を結んだ冒険者風情に語れるようなことはなにもあるまい。
「きな臭え」
グレンの唐突な呟きに考え事をしていたヴィオレは視線を向ける。なにもやましいことは考えていませんよという顔をしてみせたが、グレンはヴィオレの研究者気質を突きたかったわけではないらしい。僅かに鼻へ皺を寄せて小窓に顔を寄せたグレンがマーシャンに声をかけようとしたとき、御者が怪訝そうな声を上げる。
「あれは……煙?」
ひとが暮らす集落があるのなら火を使うこと、煙が立つこともあるだろう。それ自体はなんら不自然ではない。
だが、それがいくら人間離れしているグレンとはいえ、集落についてもいないのに焦げるような臭いを感じるほどのものであれば異常だ。
険しい顔をしたマーシャンが御者を急かし、馬車は速度を上げる。後続の馬車は突然の加速に驚いただろうが、あちらもまた速度を上げてついてきた。
「不穏ですわね?」
クウランクッカが挑発的な笑みを浮かべたとき、ヴィオレの鼻にもその臭いは届いた。
軍人としてよく知る……知りたくもない、なくしたいと思った、戦火の臭いが。
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