小説
スイートピーを抱きしめた
・余命宣告された年上と年下の恋人



 善良そうな医者が一瞬だけ口ごもってから告げたのは、私に残されたおおよその時間だった。
 手術をすれば、その時間が延びることを期待できるのだと力強く告げる彼に、私はふと同意書の存在を思い出す。
 署名は本人でも構わないのだ。そも、法的効力のある書類でもない。病院側も保身があるため融通が利かない場合はしょっちゅうだが、この病院はありがたいことに天涯孤独の身の上である私にやさしい。
 ただ、それでも本人の署名以外にも必要なものがあった。
 緊急連絡先。
 遺体の引き取り手がないのは困るのだろう。
 私の目が揺れ、手が震え、結局――



「ねえ、久生。植物園に行かないか?」

 若々しい装いの恋人は私が作った味噌汁を飲みながら「えー」と気のない返事をする。
 七つ年下の彼はゲイの私と違って異性を愛せるひとだ。それなのにどういうことか、五年ほど前に熱烈に口説かれた。
 若者らしい瑞々しい魅力に溢れた彼の気持ちを一時の熱だと一切相手にせず一年、その中で築かれた情が徐々に私を溶かすのにもう一年。
 恋人という関係になって三年。
 了承を返した私に格好良い姿が涙と鼻水に崩れて見る影もなく、しかし私にとっては誰よりも格好良くてかわいくて。
 その久生はもういない。

「満宗さんはほんっと植物好きだよね」
「うん」
「そのうち満宗さんも植物になっちゃうんじゃないの?」
「そうかもしれないね。そうしたら、お前はどうする?」
「えー……俺、植物の水やりこまめにとか苦手なんだけど……」
「はは、知っているよ」

 で、どうする?
 問いかける私に渋々、仕方なさそうに、久生は頷いた。
 じゃあ、早速行こう。
 急かす私にはいはい、とやはり気のない様子で頷いて、久生はゆっくりと味噌汁を飲み終える。
 ねえ、その味噌汁は美味しかったかな?



 外は少し寒い。もうすぐ春になる、ぐっと我慢の一時だ。
 それでも洒落者で一時期知られた私はマフラーを差し色以上に使うことをしない。
 こんなささやかな見栄が今に繋がったというのなら、なんとも馬鹿な話だなあ。
 久生はマフラーをぐるぐるに巻いていて、巻き込まれた髪がかわいらしかった。

「満宗さん、寒くねーの?」
「寒くないよ」
「植物園って外より寒いけど、平気なの?」
「平気だよ。お前がいるからね」
「うわあ……満宗さん、俺のこと好きだねー」

 うん、好きだよ。
 世界中の誰より愛していると泣いて叫んだお前に、私はすっかり惚れてしまったんだ。
 馬鹿な男だと思うかい?
 私もそう思うよ。
 植物園に入って、私は入場券を買いに行く。
 久生も続いたが、その視線は受付の胸が豊かな女性に釘付け。お前、鼻の下が伸びているよ。
 ゆっくり歩く植物園は季節柄華やかとはいかないけれど、私はそれで構わなかったのだ。
 見たい花があった。

「ねえ、満宗さん。此処、前にも来たことなかった?」
「うん、あるよ」
「やっぱり? どうせなら別のとこにすりゃいいのに」
「季節によって見えるものが変わるのは自然の美しさだよ」
「満宗さんはほんっとそういうの好きだよねー。昔からわけ分かんなかったわー」

 昔からという言葉に私は苦笑いする。
 久生と初めてこの植物園に来たのは、恋人になって初めてのデートのときだったね。それ以前からもあちこちの植物園に行っていたから、お前は忘れているのだろうけど。
 デートだとはしゃいだお前はきっと私と話したいだけで興味がなかったのだろう。あれはなに、この花はなんて言うの。指差し訊ねては答える私に嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
 ふとスイートピーが目に留まる。
 この花が見たかった。

「久生、あの花がなんて云うか知っているかい」
「あのひらひらしたの? えー、なんだろ……俺、満宗さんと違って植物に興味ないし、分かんない」

 少し、残念だ。
 名前と、いくつかの花言葉を教えたとき、お前は忘れないと言っていた。
 優しい思い出だ、と。
 至福の喜びだ、と。
 自分にとって都合のいい花言葉を抱き締めていたお前は、飛び交う蝶が花に目移りしながら選ぶように通りすがるスタイルのいい女性や可愛らしい女性に目を奪われている。
 慣れている。
 慣れているんだよ。
 私はゲイだからね、その気のない人間の一時の気の迷いには慣れている。
 異性を愛する人間が、同性のもとに恋愛感情を維持して留まるなんて滅多にあることではない。
 散々、味わってきたんだよ。

「久生、見てごらん。あの花は――」

 訊ねられてもいないのに花の説明を始めた私に面倒くさそうな顔で、それでも久生は相槌を打ってくれる。
 あの花はお前に似合いそうだと思った花。告げれば照れくさそうにしていたのが胸が痛くなるほど愛しかった。
 あの花は私が好きそうだとお前が贈ってくれた花。お前がくれたから今でも私にとって特別な花だよ。
 あの花はお前の昇進祝いに贈ったカフスの意匠。特別なときにはいつも付けてくれていたね。
 あの花は――
 ああ、きっとどれも覚えていない。

「あー、寒い。ねえ、満宗さん。そろそろ帰ろうよ」
「……そうだね、でも生花店のほうに少し寄らせておくれ」

 一瞬不満そうにしたけれど、久生は頷いた。
 植物園を出て生花店に向かう道中、私は通り道に続く住宅の庭から伸びる木を指さす。
 黄色くぽっと枝に灯る花。

「あれはなーんだ」
「ええー? えーと……分かんない」
「ははは、あれはみつまただよ」
「やな名前だね」
「枝が三本に分かれているだろう?」
「ふうん」

 一本から伸びても分かれ、違うものを育んではまた分かれ。
 ねえ、久生。
 寂しいね。
 とても寂しいよ。

「あ、店あそこ?」
「ああ、そうだね」
「じゃあ、俺そこのベンチで待ってる」
「そう? じゃあ、すぐ戻るね」
「いってらっしゃい」

 ベンチへ向かう久生の背中を見つめ、私は生花店へ向かう。
 花が開いてしまわないようひやりとした温度に保たれる店内で、健気な笑顔を見せる店員へ小ぶりの花束を頼む。
 スイートピーだけで作られた小さな花束。
 私がそれを持って店を出れば、ベンチで腰掛ける久生がなんとも目元や仕草が色っぽい女性と話していた。
 久生はよくモテる。
 私に出会う前からそうだし、出会ってからもそう。
 だから、私は久生にやめておけと何度も言ったものだった。
 お前には相応しいひとがいるのだよ、と。
 それは、私ではないのだよ、と。
 お前は聞きやしなかったね。
 しまいにはこどもが駄々をこねるように泣いて、あのときは流石に呆れたよ。呆れて、絆されてしまったよ。
 じっと見ている先で携帯電話を取り出し合うふたり。やりとりを終えれば女性が機嫌よく去っていったので、私も足を進める。

「やあ、待たせたかい?」
「んーん。あれ、花束なんか買ったの?」
「そうだよ」

 花束「なんか」を買ってしまったよ。

「お前にあげようと思ってね」
「えー、俺貰っても困るんだけど……」

 私が気紛れに上げたキャラメルの包み紙だって捨てるものかと言っていたくせに、この贅沢者め。
 でも、だめだよ。
 いらなくても受け取ってもらう。

「久生、スイートピーの花言葉を知っているかい?」
「またっ? もう、何回も言うけどさ、俺は植物とか……」
「『さようなら』だよ」

 動きと呼吸を止める久生に笑いかけ、私は恐らく女性と連絡先を交換したであろう携帯電話を持つ久生の手に花束を押し付ける。

「久生、さようならをしよう」



「……ほんとうに、よろしいのですか。手術は難しいものではありません。しかし、放っておけば――」
「ご安心ください。病院側を責めるようなことは言いませんし、言うような人間もいません。私が私の意思で、治療をしないことを選びます。そのための書類でしたら何枚でも書きましょう。でも、手術の同意書には一切署名しません」

 善良な医者は目の前で投げられようとした命を拾いたいのだろう。一瞬だけその目が泣きそうに揺らいだ。
 すまないね。
 でも、命を粗末にしたいわけではないのだよ。自棄になっているわけでもない。
 ただ、臆病なだけ。
 久生の連絡先を書くことも、余命の話をするのも立会を求めるのも……そのときのお前の顔や声が怖いんだよ。
 泣いて泣いて好きだと言ってくれた久生はもう昔のこと。
 お前からの好意をもうどれだけ聞いていないだろうね。
 だから、私の命が残り多くないことを知った久生がどんな反応をするのか知りたくないんだ。
 喜ばれるのも、立会を求められて迷惑そうにされるのも、これ幸いと別れを切りだされるのも、冗談じゃないよ。
 好きだよ、久生。愛している。
 だから、もう目を覚ましなさい。
 惰性で私の元に留まることはない。
 お前はお前の行きたいところへ生きたいように。
 徐々に辛くなる体を薬で抑えつけて、僅かな時間を久生と過ごした。
 でも、もう限界。



 呆然とこちらを見る久生が私の言葉を理解してからの表情を見ないように、私は彼に背を向けて雑踏に溶ける。
 さようなら、さようなら。
 お前を愛しているよ。
 さようなら、もう二度と会うことはないだろう。
 不思議だね、お前の泣き声が聞こえるような気がする。死に体がとうとう幻聴まで起こしたかな。実は今朝から目眩が酷かったんだ。
 もし、もしもこの幻聴が幻聴でなかったら。
 そんな妄想は、ぐらりと全身から力が抜けて赤信号の道路へと倒れこんだ私に仄かな喜びをもたらす。
 クラクションとブレーキ音、耳に痛い雑音が幻聴をかき消した――

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