小説
水のないプール(後)



 秘書として、不必要だと判断した人間を美由はあやめに取り次がない。
 パーティーのあと、実也から何度か約束を取り付けたいと連絡があったのだが、美由は尽くをはねつけている。そこに私情はない。面倒くさいという気持ちはあるが、あくまで実也の口実があまりにも馬鹿馬鹿しい、くだらない、価値を見出だせないものであったからだ。なんの利もない実也との時間をあやめに費やさせるような無能ではない。会うべき人間、深めるべき交流はもっと別にある。それを何故理解できないのか。実也が諦める気配はなく、今度はとうとうあやめではなく美由と話したいのだと言い出した。
 表向きは仕事を絡めているが、表向きは表向き。表面上のものを超えることはないだろう。
 断ることは可能だった。
 けれど、感情的になった女はときに恐ろしいまでに行動的になる。妙なことをされる前に相手の状態を窺うべきかと美由はうんざりした内心をおくびにも出さず時間をとることを了承した。
 あやめにそれを告げた時、あからさまに「お疲れ様」という顔をされたが大したことではない。
 約束の日、指定された店で待っていると十五分ほど後に実也がやってくる。

「お待たせしてしまったかしら……」
「いいえ」

 気遣いある一言もない否定に実也は困ったように笑い、向かいの椅子へ腰掛ける。
 最初は一応、仕事絡みの話だった。実があるかどうかでいえばそんなことはなく、あと五分以内に本題へ入らないのならば席を立つと思ったところで実也が窺うように「あの……」と例の上目遣いで口を開く。

「なにか」
「散葉さんは白雪社長と、その……とても親しくていらっしゃるのね」
「高校時代からの付き合いが現在でも続いておりますので」
「でも……それにしては、親密過ぎるような気がして。もちろん、男性には男性の距離感があるというのは存じておりますわ。でも、その……」

 ああ、調べたな、と美由が察するのは早い。
 しかし、動揺は欠片もなかった。
 あやめも美由も外で互いの熱を見せない。強固な信頼関係は周知だろう。だが、私人としての熱はあくまで完全な互いの領域内にのみ留めている。ふたりの住まいはどちらもゲーテッドマンションであるため、外部の人間の侵入はほぼ不可能だ。
 あやめがどれだけ美由に信頼一切を預けようと、美由がどれだけあやめに尽くして支えようと、仕事におけるものしか見ることが出来ない。
 決定的なものは得られず、実也のそれは下衆の勘ぐりと言い切ることができる。
 だが、美由から口に出すことはしない。決定的な言葉を出してくれればそれだけ楽だからだ。
 あくまで「だからなに」という態度を崩さない美由に、実也はきゅ、と唇を噛む。弱い女の姿だ。庇護欲を煽る姿だ。周囲に自身を守らせるための姿だ。

「わたくし、白雪社長をお慕いしているのです。父からあの方の話を窺って、お写真を拝見して、ご本人ともお話して……あの方の隣を望むのはそんなにも烏滸がましいことでしょうか?」

 美由はなにも言わない。

「あの方の……生まれについても存じております。でも、そんなこと関係ありません。いいえ、むしろ、だからこそ。わたくしはあの方を愛し、あの方と家庭を築きたいのです。あの方の妻として支え、いつかこどもが生まれて、あの方に暖かな家庭を差し上げたいと思っております」

 実也がじっと美由を見つめる。ありふれた茶色の目には美由を責める感情が滲んでいるが、見つめ返す美由の青い目はその色に似つかわしい低い温度しかない。

「わたくし、あの方のためでしたらなんでもできますわ。実家もきっとあの方の力になります。家でも、仕事でも、あの方を支えられます。あの方だって結婚なさるでしょう? わたくし、きっとあの方に相応しく寄り添うことができますわ。ですから、散葉さん。どうか、白雪社長があなたに傾けている時間を分けてくださらないかしら」

 構いたがりの世話焼きは疲れた時こそこれでもかと発揮され、ひとりの時間で気を落ち着けて、という休息の取り方はあやめに当て嵌まらない。あやめの私的な時間はほぼ美由に充てられている。
 共にいる時間の中でなにが行われているかを見られずとも、共にいることが分かればそれだけで十分なのだろう。

「わたくしがあの方に心許されるまででいいの。あの方と距離をおいてくださらないかしら」

 美由がいれば実也があやめの私的な時間を共にすることは叶わない。ならば、美由を遠ざけてしまえばいい。分かりやすく、単純な式だ。
 美由は、初めて冷めた仏頂面を崩す。
 す、と口角の持ち上げられた紅いらずの唇。僅かに細められた目は長い睫毛が縁取り、寒気がするほどの美貌を魅せるように笑みが浮かべられる。

「ひとつ、よろしいでしょうか」
「な、にかしら」

 ひややかな美貌に喉を詰まらせる実也をじっと視線で絡めとり、美由は窺うように首を傾ける。

「白雪が私を遠ざけてまであなたをそばに置いて、利益が生じると思っていらっしゃるのですか?」

 目を見開いた実也が言葉を発するより早く、美由は続ける。

「私が白雪に望まれて尽くす全力が、あなたという存在により制限され、あるいは妨げられて生じる損害。それは、あなたが白雪の隣に立って補えるものだと、ほんとうにそう思っていらっしゃるのですか?」
「っひとの関係は、思いは、心は損得で図るものではございませんわ!」

 堪らずといったように噛み付く実也の顔は興奮に赤く染まっている。美由としては純粋な、純粋な悪意のみの疑問だったのだが、侮辱と受け取ったのかもしれない。

「あ、あなたのことはお会いする前から噂で聞き及んでおりましたけど、間違いではなかったのですね。ほんとうに氷のように冷たい方だわ。あなたのようなひとが白雪社長のお傍にいるくらいなら、わたくしがあの方のお傍でひとの暖かさを教え、分け与えてみせます!」

 その言い方では、まるであやめがひとの暖かさを知らず、無縁であったかのようだ。先程から聞いた言葉の全てが隅々まで考え足らず極まりない、と美由の目に氷塊が過る。

「不思議ですね」
「っいったいなにが?」
「何故、白雪の隣に立つのがご自身で当然だと思っていらっしゃるのでしょうか」
「……は?」

 顔面に水をぶっかけられたように実也はまばたきをした。
 実也より賢い女、実也より美しい女、実也より恵まれた実家。実也より優れた女は幾らでもいる。それなのに、何故さもあやめに相応しいのは自分以外にいないと思っていられるのだろうか。
 あやめに結婚の意思はない。白雪の後継は既にいる。それでも尚、あやめの隣に立つ存在。

「それが、あなたである必要はない」

 テーブルを叩き、顔を歪めた実也が身を乗り出して立ち上がる。

「あ、あああ、あな、あなたに言われたくありませんわ!! 少し付き合いが長いだけであの方に信頼されて、あの方の時間を誰より占めて! その位置にいるのはあなたである必要はないでしょうッ?」

 美由は顔を歪めて嗤った。
 毒を多分に含んだ笑みはぞっとするほどに美しい。

「私は織部です」
「……え?」
「織部本家の次男です。私には力ある実家があり、個人としての伝手、財産、能力があり、力を尽くし実を結んだ実績があり、なによりも白雪に望まれて此処にいます。白雪に許されて此処に居続けることができます。
 私である必要がない? 白雪に望まれた時点でその言葉は間違いですし、此処にいるのに相応しいといえるだけのものを私は示してきた! 背中にあるものも自身の持ち得るものも親に与えられたものでさえ私があなたに劣るものはありません。だというのに、私に退けとはどの口が仰っているのでしょうか。
 最初の質問に答えましょう。利害に考え及ばぬあなたが白雪の隣を望むのは烏滸がましいにもほどがある」

 断言する美由にとうとう実也は手を振り上げたが、大人しく食らってやるほど美由は親切ではない。さっと首を傾げて避けた視界の端、困り顔で窺う店員を見つける。

「男の身でっ、あの方に家族もさし上げられないくせに! 自分があの方と添えないからそんなっ」
「それが結論ですか、あなたの最後の砦ですか。つまり、あなたの魅力、売りは雌ならば障害でもなければ誰にしも備わった機能しかないというわけですね。ますます白雪の隣に立つのがあなたである必要はなくなりました。あなたという存在の価値はそっくり白雪に伝えさせていただきます。白雪が魅力を感じれば時間を作ることもあるでしょう」

 実也はざっと青褪める。
 あやめに誰よりも信頼されている美由。その言葉、意見をあやめが疑い、邪険にすることはないだろう。
 あやめに近づきたいのであれば、実也は美由に悪印象を与えるべきではなかった。絶対に。

「それと、先程から何故か私を恋敵であるかのような物言いをなさっていますが……豊かな想像はご自身の中でのみ留めるならともかく、直接口に出されますと私としては困惑するほかありません」

 困ったような苦笑いを実也に見せつけ、美由は席を立つ。店員には迷惑料を込めた金を渡し、あとは振り返ることもなく店を出るた。
 塚原の会社にあやめの旨味となるようなものはない。今回の件は十分に塚原の鬱陶しい擦り寄りを突き放す理由になるだろう。
 なにせ、美由はあやめとの関係を邪推された挙句、理不尽な要求を押し付けられたと苦言を呈することができる。あやめとの関係は事実だが、明確な証拠が提示できないのであればそれは関係ないことだ。実也の言い分や要求にあるのは勝手な願望と思い込みのみで、そこに正当性はなく、応える義理も義務もない。



「そもそもその気そのものがねぇよ」

 自宅で美由から次第を聞き出して、あやめは鼻で笑う。膝の上、腰を抱いた美由の首の後ろを引き寄せて曝け出された喉仏を唇で食めば、笑っているのだろう。僅かな揺れと震えが伝わってくる。

「ねえ、今回のぼくは完全にとばっちりだと思いませんか?」
「んぁ、そうだなぁ……詫びでもしようか? それとも慰められたいかぁ?」
「あなたが詫びる道理はないでしょう……ぼくを慰めたいのですか?」

 見下ろす青い目には揶揄の色。紅いらずの唇から囀る声が聞きたくて、触れたいけれど塞いでしまうのが惜しい。

「すっごく」

 両肩に添えられた手がするり、と首の後で組まれる。
 すい、と寄せられた唇が耳を僅かに擽り、望んだ声が囁きとなって送られる。

「厭な思いをしたの…………慰めて」

 ぞくぞくとした震えが背骨に走り、堪らずあやめの口角が上がる。
 遠ざける? 距離をおく? あり得ない。あやめは美由から手を離す気など毛頭ないし、離れられるわけとてなかった。
 伸ばした手の一切を甘受して、どこまでもあやめに甘やかされてくれる。触れれば触れるだけ沈み込んで、飲み込まれていく感覚から逃れる術をあやめは知らない。そも、逃れたいなどと思わない。どこまでも溶けこんで、青色のなかに深く溺れたい。
 美由がいない陸地で生きるくらいなら、息など止まってしまえばいい。
 あやめは呼吸ができる不幸を嘆き、唇を重ねた。

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