小説
よっつめ



 たからじまの外は濃紺の夜空が広がって、澄んだ冬の空気に星が針でつつかれるのを嫌がるようにちかちか光る。
 夜になると糸括はがらん、としたたからじまの中、気分で変わる飲み物を用意するのが日課だ。用意した飲み物は冷たくても熱くても、紅茶もココアも関係なく湯飲みにいれて、パッチワークの壁掛けに一番近い椅子に腰掛けながら味わう。
 たからじまに決まった閉店時間はない。開店時間もない。休日もなにも、決めていない。
 たからじまはただしく道楽で趣味で、気分だ。
 糸括のための店だ。糸括による糸括のための糸括の空間だ。糸括がいかに楽しく過ごせるかが全てなのだ。誰かにくつろいでもらいたい、癒しを提供なんてそんな殊勝な理由じゃない。お客さまにはとても感謝している。こんな我侭な店、怒っても腹をたてても当然。でも、世間の風はそんなに冷たくなかった。糸括はこれからも世間様の甘い蜜だけを吸って生きていきたい。来世はカブトムシになるのかもしれない。
 甘い蜜とは違うが、湯のみの中で揺れるホットミルクをちびり、と舐めて、糸括はふう、と息をつく。
 どうしても寂しくなってしまうこの季節。いつか聞いた話をふつり、ふつりと思い出しながら、ホットミルクといっしょに飲み込む。思い出溶け込むミルクはほんのり甘い。
 ちらり、と眺めたパッチワークの壁かけ。視線を移らせてドライフラワー、オルゴール、どんぐり。店の中の飾り気はこれだけ。
 冬になる。いや、もう冬だ。ひゅうるりひゅうるり、風が痛いほど冷たい冬なのだ。だから店の中はさみしい。

「……秋はもう終わっちまったねえ」

 秋はもっと店の中に飾り気があった。冬になったので片付けた。それだけなのだ。だから、店内にものが増えるのはまだまだこれから。できれば、たくさんのものに飾られてくれると嬉しい。それは、糸括の楽しみでもあるのだ。
 季節ごとに舞い込む思い出を、糸括は一つずつ置いていく。季節が終われば片付ける。整理する。時々大事にしまう。何度も繰り返してたからじまには少しずつ思い出が染みこんで、ほんの僅かに空気を、色を変えていく。
 変わらないのは飴色のテーブルと椅子とかカウンターとか。あとは店員、糸括自身。どんなに人生へ革命を起こしたという思い出話を聞いても、それが糸括の中で天変地異となることはない。ぽつりと波紋が広がったとしても、波紋はいずれ静かに落ち着いてしまうものだ。
 糸括はほんのり染まった指先で壁掛けに触れる。ちょっぴりひんやりした柔らかい感触。
 パッチワークの壁掛けは、少しずつ柄を増やしていく。冬が終わればどれほどになるだろう。賑やかだろうか、それとも物足りないだろうか。どんなものを継ぎ接いでいこう。

「記憶はパッチワークにしても味はでねえなあ……」

 秋にはなにがあっただろう。思い出そうとしても覚えきれていない。ちょっとした場面が切り貼りしたネガのように、そのネガだって日に僅かに当ててしまって――まったく、すっきりしないったら。でも、それで構わないのだ。

「ひとの話はいいもんだよ。ひとの思い出はほんっと素敵だ。私が覚えている必要はないんだから」

 その割りにいつでも読める小説などよりも楽しいことが多い。お得だ、と糸括は無邪気にわらう。
 覚えきれないけれど、覚えている必要がないので、記憶のざるにひっかかったものだけを置いていく。
 ――忘れたっていいのですよ。覚えていられなくてもいいのですよ。お楽しみは忘れてしまったほうが、思い出したときに嬉しいものでしょう。
 忘れていたけど思い出した言葉と、それを言ったひと。その言葉に糸括は深く頷く。
 たからじまを与えてくれたひと。紳士とは彼のようなひとを云うのだと糸括は今でも硬く信じて疑わない。そんな彼は紅茶を淹れるのがとっても上手で、博識な彼の話があんまり面白いから糸括はひとの話を聞くのが好きになったのかもしれない。思い出が飾られる店のなか、糸括は彼に感謝しながら自身の思い出とともにぬるくなった湯飲みの中身を一口飲みこむ。とろとろまろやかで優しい味。眠くなってしまいそうな、このままちゃぽん、と溶け込めたらどれだけ穏やかな気持になれるだろう。暖かいミルクを泳ぐ夢はきっとなによりも安らかな眠りのなかにあるに違いない。
 こども染みた空想の中、糸括はふいにミルクの中に落ちてしまったひとの話を思い出す。やさしくてかわいらしい話だったはずだ。美味しいお茶が飲みたくなる話だったはずだ。さて、その詳細はどんなものだったかしら。
 糸括は結末までの記憶のしっぽをするすると追いかける。記憶は猫じゃらし。手で握ろうとすれば逃げていき、掌にくすぐったさばかりを残していく。それでもどうにか掴んだ一端、糸括はひとつ頷いた。

「そうだ、そうだ。ミルクの中から出ようとするんだった」

 さて、それではどうやって出るのだっただろう。
 うんうん悩んで考えたけれど、ホットミルクにまどろんでしまったその日、糸括は結局思い出すことができなかった。

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