小説
みっつめ
寒いさむい朝のはやい時間。朝靄はひんやりと冷たくて、空気は痛いほど。
健康的な小麦色の肌ではそうと分からないけれど、松月の鼻も指先も少しだけ赤い。赤くて、ちょっとだけ痛くて冷たい。
松月の朝は早い。寝起きもいいのであと五分、などと繰り返して寝過ごしたりはしない。夜が遅いものだから寝起きが壊滅的な幼馴染を思い出して、松月はひっそりとわらった。普段から難しい顔を得意にする幼馴染のひとりは朝起きるとまるでこの世の何もかもが忌々しいというかのような顔をする。迂闊に近づくと殴られるので、いつか彼の寝具周辺にはバリケードテープを貼ってやろうと思っている。実行すれば恐らくは関節技を決められるが。それでも、あまり丈夫ではない幼馴染の元気な様子は松月にとって喜ばしいものだ。
早く起きてもやることがない、わけではないのだけれど、済ませてしまってからも十分時間があまっている。それをどう使うかは日によって違うのだけれど、今日は散歩に決めて松月は歩く。ぶらり、ぶらりと歩く。ランニングもいいかもしれないと思ったのはすっかり歩き始めてからだった。格好も走るには向かない。
かあかあと烏が鳴いている。あーあーとまだへたっぴな鳴き声の烏もいる。今日は生ゴミを出す日ではないので、おまえたちのご飯になりそうなものはいつもの場所にないよ、と松月は内心で嘯いた。できればゴミを荒らしたりはしてほしくない。無論。
早朝の街は青く見える。白っぽい青に見える。雪の影のような透明度はない。青くて暗い。烏の鳴き声と首を掠めていく風以外は静かなものだ。青くて寒々しい街並に松月の夏が似合いそうな姿は不思議とよく馴染んだ。たとえば路地裏の影のように、たとえば繁った葉から零れる木漏れ日のように。いまの松月はぴったりと街の一部だった。
寒いので首をひっこめて俯きがちに歩いている松月の足元、こどもが蝋石で描いたけんけんぱのわっかや、意味のない矢印、線路が続いているのを見つける。線路は長かった。
「こういうのって見つかると怒られるんだよな」
公園なら別だが、道路はまずい。
きょろり、とあたりを見渡して、松月はわらった。
線路の終着駅はアンティークショップのような外見の店だった。
なんてことない灰色の塀が続くなかに表れた店は喫茶店、のようなものらしく、まだまだ早い時間だというのに開店中とかかれた木のプレートが蝶番の開き戸にかかっている。
見上げれば開き戸の上の方に、やはり木製のこじんまりした看板が控えめに店名を教えてくれていた。
「たからじま、か」
終着駅は「たからじま」でございます。
とつぜん絵本の中に飛び込んだような愉快な気持ちになって、松月は開き戸に手をかけた。
しゃららん、しゃららん、と鐘の音よりもずっと軽やかで、反響の仕方が似た銀の鈴、もしくはさんがを束ねたような、そんな音がした。
店の中には青年がいるだけで、他には誰もいなかった。たったひとりっきりの青年だって、飴色のテーブルに突っ伏して、呼吸がおだやかだ。
どうしようかと松月が所在無くしているうちに、しゃららん、の音はふつふつとさんがを一つずつはずしたように消えていく。最後のひとつが消えていったら穏やかに上下していた青年の肩がびくり、と弾み、がば、と頭が上がった。
「――おはよう」
真面目にお辞儀をしてみせて、枯茶色の髪をひょいとゆらす。顔を上げる際にまたひょい、と髪がゆれて、気の抜けるようなふわふわ笑顔。そんな愛想の良い店員さんの姿をした青年のいった言葉は「おはよう」だ。
ぽかん、とした松月に、青年は首をかしげる。かしげて、ぱちり、と瞬きして、耳が少し赤くなっていった。
「や、やあ、いらっしゃい……」
思わず噴出して笑ってしまったのは仕方ない。
ぷう、とこどもっぽく頬を膨らませていたのは一瞬で、青年はすぐにくしゃっと笑いながらほうじ茶を松月の前においていった。いっしょにおいていかれたお品書きの表紙は厚手の和紙で、捲れば淡く青い色のついたパラフィン紙が使われたちょっと洒落たものだった。
松月の日に焼けた手は見るからに暖かさそうなのに、湯のみを包み込めばじいん、としびれる。
(冷えてたんだなあ)
変なところで感心する、と自分で自分に呆れた。
じーっとオリジナリティがあるようには思えないメニューが続く中、ふと書かれた文字に気が付いた。
「……あー」
気の抜けた声をだしながら蝶番の開き戸を思い出し、店内を軽く視線で見渡して苦笑いを浮かべた頃には松月の舌は一定のものを食べる準備が出来た。
「――注文は以上でよろしいかな?」
やってきた青年の繰り返す注文に軽く頷けば青年は「帰る時間にはゆとりを持ってな」と言って礼を返し、ぱたぱたとカウンターの方へいった。
注文を終えてから注文したものが運ばれてくるまでの時間は客にとっての休憩時間かもしれない、と松月は思う。
注文を決めるまではどんなに気だるげにしてみせても休んでいないし、注文が来てしまえば切り上げるまでずっと客だ。マナー違反ではあるが、注文がくるまえにキャンセルして席をたってしまえば客でなくなる。
つまり客である状態での休憩なのだ。貴重だ。
しゃっきりしているつもりでも、早朝の靄がかった頭は取り留めなく言葉を結んで解いてを繰り返す。そういうことだ。深く考えているわけではない。
ふあ、と欠伸をひとつかみながら、松月はゆるり、と店内を見渡した。休憩時間にできることはやっておこう。休憩時間が終わればできない。
脳内論理の尾を引き摺りながら眺めた店内は茶系統で暖かみがあるのだけれど、殺風景ともいえた。壁には手作りだろうか、松月には判別つかないがパッチワークの壁掛けがかかったきり。
(こんなに暖かいのに、淋しいな)
まあ青年の趣味かもしれないし、偶然たどり着いただけの客が気にすることじゃない。おっとじぶんはいまきゅうけいちゅうだった。
どうにも一定の周期でスタート地点に戻ってくる思考をくるくる持て余していれば、青年はさっさかとやってきて、さっさかと飴色のテーブルに膳をおいてくれた。休憩終了。
こういうところになんであるんだ、とさっさかカウンターへ戻っていく青年に問いたくなる。
小皿にお行儀よくならんだ奈良漬、お茶碗二杯分くらいの小さな土鍋。香ばしいあられ。
(茶粥なんてどれくらいだろう)
伏せられたお茶碗によそいながら、松月はかすかにわらった。
かふかふと一気に平らげてしまった香ばしい茶粥、その後味に寄り添うほうじ茶を飲み干して、松月はふう、と息を吐く。席を立つのが億劫だけれど、ちら、と確認した腕時計の指す時間を見ればもうすぐゆっくりする時間は終わりだった。ゆとりを持ってと事前に言われたことだし丁度いいだろう。
がた、という音を聞きつけたのか、青年がしぱしぱと眠そうな目で瞬きしながら歩み寄ってくる。
会計を、といおうとしてから松月はなにかを忘れている事に気づいた。
なんだっけ。なんだろう。
松月がゆるり、と視線をまわしていれば、青年が目をこすりながら、眠たげな様子とは逆に声だけをはっきりと出した。
「お会計は思い出となっております」
ああ、寝ぼけているんだなあ、と苦笑いして流そうとしたのだが、青年は欠伸を小さくしてから、手近な椅子をひいて腰掛けてしまった。
「この店はただしく趣味で道楽だ。お金は無用、楽しく愉快な時間を私におくれな。思い出だよ、おもいで。たのしい思い出、愉快な思い出。いっそ甘酸っぱい初恋やしょっぱい失敗談でもなんでも歓迎する。話を聞くのが好きなんだ。さあさ、お客さま。そちらに腰掛けてお話してくださいな」
眠そうな様子をころり、と変えて楽しそうにわらった青年、やわらかな口調だけれど言っているのは「さあ、よこせ」と突きつけ要求する言葉。
当たり前に掌を上に突出される手を松月はよく知っている。
「……昔も今も続く一途な俺の大恋愛をだな――」
考えるより先に口から零れるのは一等大切なひとのこと。
次に会うことがあればこの店の話をしてやろう。難しい顔を最初は嫌そうに顰めるだろうけど、きっと気にいるに違いないから。
好きなひとがいます。そのひとは幼馴染です。
好きなひとは松月をいもむしけむしはさんですてろ、といわんばかりの扱いをします。好きなひとはとっても厳しいひとだったので。
口癖のように好きなひとに想いをぶつける日々のなか、松月はテレビであるシーンを発見した。ストーリーはさっぱりだけれど、そのシーンはいまでもくっきりはっきり覚えてる。
まあ、ありきたりなプロポーズのシーンなのだけれど、方法がありきたりなようでありきたりじゃあ、なかったんだよ。
いまのゴジセイに両手に薔薇の花束抱えて白いタキシード。あなたいったい何十年前の少女マンガから出てきちゃったの。
そんな格好でプロポーズした役者にこどもの松月は感動しちゃって、次の日には薔薇の花束を花屋で買ってきた。行動力だけは昔から呆れるほどあったもので。ただ、白いタキシードはその頃まだサイズがなくて残念無念、また数年。
結果はうん、いま思えば上々だろう。
説教された。あほだばかだこうどうのまえによくかんがえろしょうどうでむだづかいするな。ありがたい説教だ。仕上げに頭を一発はたかれた。
でも、好きなひとからの説教もはたかれるのも、なんなら拳や関節みしみしいわせる絡め技だって慣れているのでめげなかった。めげなかったけどちょっとだけ落ち込んだ。
全然上々なんかじゃないと思うでしょう。
あとで知ったのだけれど、好きなひとは松月が贈った薔薇の花束をドライフラワーにして大事にだいじに、いまだって持っていてくれているのよ。
上々、最高、こんなにうれしいことはないでしょう。
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