小説
ホワイトデーレッドライン〈ヘリオトロープ〉



 ホワイトデー、来るそのイベントに美由は覚悟していた。
 美由は世話をされることには慣れているが、基本的には放っておいてもらいたい性質だ。ひとりの空間を愛し、必要とし、ひとりで過ごす時間がなければ強いストレスを覚える。
 対してあやめは構いたがりの世話焼きで、関心薄い環境で育ったせいかそれらがやや過剰。
 あやめと共にいることは苦痛ではない。触れられることも心地よいと感じる。
 しかし、限度がある。

「ホワイトデーです。覚悟しろぉ」
「上等ですよ」

 今どき珍しくある創立記念日を含めると三連休の初日である土曜日の朝、宣言するあやめを美由は迎え撃つ。
 自分の好みだけで構成された朝食など小手調べにもならない。なんなら食べさせようと口元に運ばれたところで応じてみせよう。しかし、あやめは世話を焼きたいだけで美由を不愉快にさせたいわけではない。自重するところは自重する。
 食後の紅茶も片付けも一切思いつくより早くあやめが手配し、今日の予定を訊く前にだん、と積み上げられたのは本。
 美由はインドア派である。出かけなくていいなら出かけないし、読書は好きだ。積み上げられた本は表紙だけ見ても美由好みである。あれこれ幅広く読む美由がまだ手を付けていない本を、よくもこれだけ用意できたものだ。
 感心七割呆れ三割、一冊手にとった瞬間、クッション置かれたソファに運ばれた。すぐそばには飲み物も用意され好きなだけお寛ぎください仕様である。
 まずは一頁、読み始める美由の伸ばされた足を、床に座ったあやめがとる。爪が整えられ、ハーブ湯で暖められ、心地よくマッサージされる。
 一冊読み終わったところで飲み物に手を伸ばせば、温くなっていると思っていた紅茶は温かいまま。いつの間にか淹れ直されている。味わってカップを置けば肩がゆったりと解されていく。
 その調子で本を読み進める美由は、やはりいつの間にか用意された昼食にようやく本を置く。
 フランスパンを使ったミガスは食欲の湧く香りだ。
 あやめは別に料理が得意なわけではないが、一人暮らしをすればそれなりに作ることもあるし、世の中にはレシピサイトも本も溢れかえっているため初めての料理でもそこそこ作れる。文字に加えて画像まで掲載されているのに理解できないというのは最初から「分からない、できない」で思考が停止しているだけである、といつか言い切っていた。美由は否定しない。思い出すのは職場で新人が「やりたいんですけどできないんです」と言っていたときのこと。「できないのはできるようになるための努力か」と訊き返したくなったが、やめておいた。使える社員は最初から「できるようになりたいので教えてください」という言い方をする。案の定、新人は新人のまま辞めた。理由が「ひとの下で働くのは自分に合わない」だったのでこちらにはどうしようもない。
 今後の人材教育と確保を頭の片隅で検討しながら、美由はしっとりと香ばしいパンをスプーンで掬う。

「美味しいです」
「そいつぁよかった。でもなぁ、美由」
「はい」
「仕事は忘れろ」

 何故バレたのだろう。
 昨日の夜の段階で仕事の禁止を言い渡されていたが、まさか思考にまで及ぶとは思わなかった。

「了解」
「休日終わったら、またよろしくなぁ」

 あやめのこういうところが好ましい。
 必要のない遠慮は過干渉や制限と同じだ。
 笑って「了解」と繰り返す美由に、あやめもすい、とスプーンを振って肩を揺らした。
 食後、美由はジンジャーシロップを溶かした飲み物を作ることに成功。食器を片付けてきたあやめが愕然とした顔をした後に舌打ちをしたので勝ち誇った顔をする。

「お前覚えてろよ」
「もう忘れました」

 ぐりぐりと頭を撫でられ、すぐに甲斐甲斐しく髪を梳かれた。
 椅子に掛けて向かい合い、とりとめなく話す本の感想。好意的なものからボロカスに貶すものまで、様々な本を読んだ。

「百科事典はなんやかんや楽しいです」
「分かる。ビジュアル付きは更に楽しいわ」

 頷き合う。

「あの都合のいい部分だけ拾ったこじつけをドヤ顔で論文にして説をゴリ押しとか恥知らずだよなぁ」
「正直、今まで目を通してきた文章の中でも、時間の無駄の度合いで言えばかなり上のほうでしたね」

 総ツッコミと駄目だしで頷き合う。
 同じ本を読んでいれば感想は言い合う。知らない本を相手が読んでいれば後で読もうかと思う。しかし、読んでみろ、と押し付けはしない。
 丁度いい距離感と時間を揺蕩うのは楽だ。
 ソファに移動して座ったところであやめがごろりと寝転がって膝に頭を乗せてくる。足は大幅にソファからはみ出ていた。

「手置きをどうも」
「どういたしまして」

 あやめの頭に本を置いて読むこと暫し、気付けば最後の一冊。開いたところで本からなにかが滑り落ち、あやめの上に落ちた。

「栞?」

 頭に千鳥がついた薄く平たい鼈甲の栞を拾えば、あやめがぐい、と首を捻る。見上げる目と栞の色は、少しだけ似ていた。

「ホワイトデーのお返しな」
「少し意外です。ありがとうございました」

 てっきり徹底して世話を焼かれて終わると思ったが、考えてみればあやめが自分だけ楽しむことはしないだろう。世話を焼かれるのは美由だが、それで一番得をするのはあやめだ。
 美由は栞を明かりに翳してから本に挟み、本ごと脇に置いた。
 指先で目元をなぞれば、目を細めながらあやめが「なに?」と問いかける。

「なにも」

 なにもない。
 なにもなく触れたくなっただけ。
 理由なく、愛しいと思っただけ。
 凪いだ気持ちは眠る瞬間まで続き、目を覚ますときまで保たれる。

「おはようさん。美由さぁん、ホワイトデーアフターだ」

 そして早々に波風が立った。
 眩しく笑うあやめ、僅かに唇噛んで引く美由。
 連休は残り二日、ホワイトデーはデイアフタートゥモローまで続く。
 休日を堪能した部下は三日ぶりに見た上司が髪や肌、爪に到るまで艶めいているにも関わらずげっそりと憔悴していることに驚いたが、美由が理由を口にすることは一切なかった。
 尚、あやめがやたらと満ち足りた顔をしていることで、社長による無茶ぶりに振り回されたという噂がこっそりと巡ったが、あながち間違いではない。

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あきゅろす。
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