小説
納刀



 紅梅が咲いていた。
 甘やかな香り漂う道を歩く源柳斎の手にはなにもない。
 その身を包むものは慣れた着物に袴、ダンボールの影も形もない。
 源柳斎は歩いていた。
 長く、ながく走り続けていた足をゆったりと、向かう目的地はないけれど、この先を行けば、という確信がある。
 風が吹く、紅梅が舞う。
 赤い花は次第に薄紅へ、視界を覆うほどの桜吹雪に源柳斎は片手を翳した。
 この先にあるのだ。
 見たいものがあるのだ。
 この先にいるのだ。
 会いたいひとがいるのだ。
 それを目にするには視界を覆う花びらが邪魔で、源柳斎はまるで風の流れを追うように手を滑らせる。
 ぱっと斬れた薄紅の霧、ようやく晴れた眼前に源柳斎は再び進む。
 まず、なにを言おうか。
 結局、饒舌になることはなかったし、どちらかと言えば口下手だったかもしれない。だから、大事な言葉は惜しまず全て伝えたい。
 けれど、大事なものは、伝えたいものはたくさんあり過ぎて、まずはどれを言うべきなのか悩んでしまう。
 悩みながら歩いて、歩いて、頭上に月が輝いて、朝焼けが眩しくて、朝靄の向こうに人影。
 八尺ほどの距離まで近づいて、ようやく人影はよく知る人物の姿となった。

「――あに様」

 円い目は弓なりに、口元に湛えた笑みさえ無性に懐かしい。
 どっと溢れた感情に胸が焼ける。
 俯き、口を片手で覆って、腕を下ろして、顔を上げた。

「…………待たせた」
「早過ぎるほどかと」
「いや、そうではない。そうでは、ないのだ」

 不思議そうな顔をする幼馴染になんと言うべきか、探すも言葉は見つからない。
 伝えるべき心は確かにあるのに、一体それはどんな形にして差し出せばいいのだろうか。
 もどかしさに拳をつくった源柳斎はふとまばたきをする。
 ゆるり、解いた手。
 長く鋼を握り続け、硬くなったその手をそっと差し出した。

「…………よろしいのですか?」

 呆然と目を見開かれた目に、源柳斎は頷く。

「私はもう、到った。この身こそがひと口の刀なのだ。故に……」

 ずっと、ずっとずっと鋼を握り続けていた手。そのためにあったと言っても過言ではない手。鋼以外に、以上に相応しいものなど、握るべきものなどなかったような、褐色の手。

「蝶丸――我が担い手となって貰えまいか」

 呼吸さえ儘ならぬというように喉を震わせ、奇妙な呼気を漏らした蝶丸。
 おず、と伸ばされた手は源柳斎のものよりも小さい。それを壊さぬように、しかし離さぬように。
 ああ、この手はこんなにもしっくりと、まるで合口の鞘と柄が如く馴染んで納まるではないか。
 握りしめた手が万感に震える。

「往こう」

 眩しげに円い目を細め、握り返される手。

「共に往こう、蝶丸」
「あい、あに様」

 我が身一つでひたすらに斬り拓き駆けてきた生、到ったその先は唯ひとりの担い手と共に。
 はらり、はらりと花びらが舞い降る。
 吹き抜ける風の向こう差し込む光、見知ったひとの影がある。
 やがて光に照らされ眩いばかりの白に染まった花びらが世界を染め上げ――
 あとには斬響のみが残った。

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あきゅろす。
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