小説
三十九刀
目釘を抜いて柄とはばきを外す。拭い紙で古い油や汚れを落とし、均等に打ち粉をかけていく。もう一度拭い紙をかけた。油紙で新しい油を塗っていくときは殊の外慎重に。
源柳斎は刀の手入れをする蝶丸をじっと見ていた。
何百回と繰り返して尚慣れによるいい加減さを欠片も見せない仕草、その丁寧さ。源柳斎が不器用なわけでも苦手なわけでも、まして劣っているわけでもないのだが、源柳斎にはどうしても蝶丸の手入れに敵うことがないように思える。
すっと鞘に収まる刃、静かに息を吐く蝶丸が振り向いた。
「如何なさいました?」
「いや……」
口ごもる源柳斎に不思議そうな顔をして、蝶丸は手入れ道具に視線をやる。
「あに様もなさいますか?」
大体季節ごとに行う刀の手入れ、蝶丸がしたならば源柳斎もしたほうがいいだろう。
しかし、あの淀みない動作を前にした後だと、どうも躊躇ってしまう。
「私がやるよりも蝶丸のほうが上手いからな」
「おや、うれしい」
くすくす笑う顔に源柳斎も口角を上げて「いっそ、任せてしまおうか」と呟いた。
年を経て、ほんの少し目尻の下がった円い目がぱちぱちとまばたきを繰り返す。
刀の手入れなど、専門家に調整を頼むのでなければ自身で行うべきだ。武士の時代などとうの昔に朽ち果てた。然れど、剣士にとって刀の存在は筆舌に尽しがたく重い。軽々しく任せようなどと口にするべきではないのだが、源柳斎が軽口を叩くことなど滅多にない。冗談も得意ではない。
源柳斎は薄く口を開いて自身を見る蝶丸に、苦笑する。
「蝶丸ならば任せられる。いや、むしろ任せられないなどあるまいよ」
幼いときから共に過ごしてきた蝶丸。
ともに鋼を振るい、源柳斎がダンボールを被ったときも変わらずそばにいてくれた。今なおせっせと庵にまで通ってくれて、深く沈み込む姿も晒してきた。今更なにを気取る必要があるだろう。見せられないものも、差し出せないものも、きっと在りはしない。
訥々と語る源柳斎に、蝶丸の目が潤んだ。
「よろしいのですか?」
「よろしくないわけがないと言ったのだが」
伝わらなかっただろうかと源柳斎は悩むが、蝶丸がくしゃりと笑み崩れるものだから思わず思考が止まった。
ひととは、かくもうつくしい笑みを湛えるのか。
「あに様」
眩しさに目が焼けそうな思いの源柳斎を知らず、蝶丸が昔から変わらぬ呼びかけをする。
「……ああ」
「蝶丸はうれしゅうございます」
蝶丸の片頬を伝った涙のわけを源柳斎は知らない。
けれど、その知り得ぬ理由こそが最後の仕上げとなるのだ。
うれしくて、うれしくて、少しだけかなしい。
斬るのだ。
刀は斬るのだ。
「でも、斬れないなあ」
実家の小さな道場には蝶丸以外に誰の気配もない。ひたすら繰り返した斬撃に、もはや腕も上がらなかった。
鞘に収めた鋼を抱いて、蝶丸はその場に崩れ落ちる。
俯いた顔はこの上なく幸福そうな笑みを浮かべているのに、次から次へと涙が零れた。呼吸の合間に噛み殺した嗚咽が微かに響く。
――任せられないなどあるまいよ。
源柳斎に告げられた言葉が頭のなかに反響する。
あの幼馴染は知らぬのだ。あの兄弟子は知らぬのだ。
蝶丸がその言葉にどれほどの歓喜を覚え、直後心折れたか。
斬るのだ。
刀であるならば斬ってみせるのだ。
斬れないなどとは決して言ってはいけない。
斬らずとも、斬れるべきだ。
蝶丸は、弓削蝶丸は月柳流剣士である。
才能足らずとも、刀へ到ることを常に目指してきた。
斬って、拓いて、頂へ。
それなのに。
「斬れない」
ほたほたと落ちる涙の合間に呟く。
「斬れないのです」
泣き笑いに滲む苦しさ。
「斬ることができないのですよ、あに様」
苦しい、苦しい。喉が潰れてしまいそうなほど苦しい。
苦しいならば斬ればいい。
斬ってしまえば苦しくない。
「斬れない――この慕情をどうして斬ることができましょうや」
斬れない。斬れない。どうしても。
鋒突きつけ向き合うことすらできやしない。
この有り様はなんて様と言う他ありはしない。
斬れないのだ。
斬ることができないのだ。
そんなものが刀へ到れるわけがない。
苦しい、月柳流剣士としての弓削蝶丸が悲鳴を上げる。絶望する。
それなのに、うれしい。
源柳斎の幼馴染である蝶丸はただうれしい。
傾けられた心に幸福が満ちる。
いとしい、いとしい、紡がれる絲を斬れやしない。
絶望と幸福が同じ量、胸に重なって蝶丸は喘いだ。
斬れないのだ。
蝶丸は生涯この二つを携えるしかないのだ。
どちらかひとつが欠けても、斬っても、蝶丸の心は死ぬだろう。
「……それでも、いなければとは、見えることがなければとは……想わなければなどとは……決して思えぬのですよ」
あに様、貴方の存在がうれしい。
あに様、貴方と出会えてうれしい。
あに様、貴方を想うことがしあわせなのです。
蝶丸自身が斬れない慕情。誰に見せることも触れさせることもできない、させない慕情。
もしもそれを斬る刀が存在するならば、それはただ一人、源柳斎のみが持ち得ているのだろう。
「でも、貴方であっても、貴方だからこそ、ぼくは……」
――斬ろう。
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