小説
三十四刀
静かな庵、源柳斎はただ端座していた。なにをするでもなく、なにを見るでもなく、目を閉じることすらなく、呼吸一つひとつも慎重に、微動だにせずただそこにいた。
八雲が亡くなった。
夭折と言ってもいいかもしれない。
ひとは誰でも死ぬものだ。理解していないわけではない。まして、数年前に夕吹が亡くなったときですら、唐突だった。目の前の、出来事だった。
だが、それが八雲に当てはまるかといえば、そうではなかったのだと源柳斎は指先を震わせる。
虚弱体質だった。よく熱を出していた。それでも鋼を振るえば誰が八雲を弱者と謗ろうか。その気迫だけで腰を抜かすひともいるだろう。
言い方は悪いけれど、源柳斎は八雲が病上手の死に下手を地で行くと思っていたのだ。
いつも、いつまでも、あの面影が、自分を見る信頼に満ちた眼差しがあるものだと思っていた。目指す頂への道を同じくするのだと思っていた。
いないのだ。
隣にも、前にも後ろにも。
八雲がいない。
もっと斬り合えばよかった。
斬って、斬って、鋼を合わせて。響く刃の音色がこの先にも続くくらいに。
ふつりと途切れた気配。
もう、いない。どこにもいない。
眼差しも、呼ばう声も、描かれる銀閃もない。
共に歩んだひとは、いないのだ。
「あに様」
そっとそばへ寄った蝶丸が「酒々をお持ちしましょうか?」と問いかける。
夕吹のとき、源柳斎は酒のおかげで哀惜諸共頭痛に吹っ飛ばされた。気持ちを切り替える手段として選ぶのなら有用だろう。
だが、源柳斎はその手段を取りたいとは思わなかった。筆舌に尽くし難い体調不良を恐れたわけではない。
「もう少し、あと少しだけ沈みたいのだ」
八雲の死という水のなかに浸りたい。
凍えるほどに、身を切るほどに冷たいとは思わないが、ぬるくて重たいこの水に沈みたい。
呼気吐き出すごとに内側に入り込んでくる実感。重くなる体。
この水底に八雲はいるだろうか。いないだろう。分かっている。無意味なのだ。ただの感傷だ。
斬って進みたくないと思うほどの――寂しさ。
「あに様……」
蝶丸がそっと源柳斎の頭を抱いた。
膝立ちになって、普段は見えない頭上に頬を寄せる。
「寂しい、とても、寂しゅうございます」
「……ああ」
「でも、寂しくない」
ぽつり、ぽつりと落ちる言葉。
「宗家は、八雲様はあに様が大好きでいらっしゃいました。あに様の鋼を、斬撃をなによりも信じていらっしゃいました」
知っている。
源柳斎がダンボールを被る以前、誰に疎まれようとも認め続けてくれたひと。死する前に交わした言葉にすら、それらは変わらなかった。
「ぼくもです」
凪いだ声。
「ひとり沈む貴方、ひとり斬り拓く貴方。貴方全てを信じている。前を示せなくとも、隣を歩めずとも、背中に触れられずとも、貴方は其処に、頂に行ける、頂にいるのだと信じている。決して見失うことはない。見つめ続けることができる」
だから、寂しくない。
そこに行けば会えるから。
いずれ同じ場に辿り着き、集うのだから。
「触れる手がなくとも重ねた刃が共にいます。囁く声なくともいつかの斬響が必ず追いつきます。肉体滅ぼうとも、貴方に刻んだ我らの斬撃が消えることはない」
だから、寂しくない。
だからこそ、寂しくはない。
「寂しいわけなど、ないでしょう?」
あれほど動かなかった腕を伸ばし、源柳斎は蝶丸の背を抱いた。自分よりもずっと薄い胸に額を押し付けて、ぎり、と歯を食い縛る。だが、その強張りはすぐに解けた。
「八雲様……八雲殿は、亡くなったのだな」
「はい」
「亡くなった、だけなのだな」
「はい」
いずれ、刀へ到ろうぞ。
刀であれば、即ち斬撃とともに。
「ならば……寂しくなど、ないな」
身の内を満たしていた水が抜けていく。浮き上がる体は現実の重さを訴える。だが、鋼よりは軽い。
手に握ったとき、その鋼はきっと前よりも重いだろう。その重さを手放すことなど考えることもできない。これから先、更に鋼は重さを増すのかもしれない。その重さとともに目指そう。その重さを斬撃に乗せよう。その重き斬響をこそ天高らかに。
其処にいる。
此処にいる。
会いに行く。
連れて行く。
そのために。
「――斬ろう」
斬りたくないと思ったほどの寂しさを、今ならば、今だからこそ斬ろう。
鋼を握り、斬って、拓いて、前へ、前へ。
ふっと額を上げた源柳斎から腕を解き、蝶丸は微笑み端座する。
離れた温度が冷えていく。この熱と、鋼の冷たさに打たれてきた。
「……蝶丸」
「はい」
「蝶丸」
「はい、あに様」
迷うように視線を揺らして、ようやくじっと見つめた円い目に向かい、源柳斎は結びかけた口を開く。
「ともにいてくれ」
ずっと、ずっと情けない姿を見せてきた己を認めてくれる数少ない、今となっては唯一の相手。これからもを願うのは不相応だろうか。けれど、断ってくれるなと願わずにはいられない。
しかし、蝶丸はおかしそうに笑い、しっかりと頷いた。
「それ以外など、考えたこともありません」
源柳斎は長い睫毛を伏せて、微苦笑を浮かべる。
「そうだな」
もう一度目を合わせて、今度は困ったというように、仕方ないというように。
それなのに、心からうれしそうに。
「――そう、だったな」
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