小説
三十二刀



 咳き込む気配がする。
 母屋を歩いていた源柳斎は眉間に皺を寄せながら気配のほうへ向かう。案の定、口元を片手で押さえた八雲が柱に凭れていた。
 静かに近寄り背中を擦ってやれば、八雲は苦笑を浮かべた顔を上げるも一瞬、すぐに俯いて再び咳き込む。
 触れた背中は熱かった。高い熱が出ているようだ。

「部屋へお送りする。立てるだろうか」
「すまないな」

 ゆっくりと立ち上がる八雲を支えて歩き、部屋まで連れて行けば既に布団が敷かれている。
 ここのところ、八雲はよく寝込んでいた。体調が悪ければすぐに休めるようにと布団が上げられることは少ないらしい。
 横になった八雲へ布団をかけて、目元にかかった髪を払うと白い顔色のまま八雲が笑んだ。写真で見る父、銀之丞に生き写しだった。そういえば、銀之丞はこのくらいの歳で――

「源柳斎」
「なにか」

 布団から伸ばされた手がそのまま源柳斎の頭に置かれ、短い髪をくしゃり、と撫でていく。源柳斎ももう三十歳だ。頭を撫でられるような歳ではない。しかし、しかし、源柳斎は八雲の手を避けようとは思わなかった。それは幼い頃に与えられなかった温度にどこかで惹かれたのかもしれないし、写真の中でしか知らぬ父と同じ顔をする八雲の穏やかな、どこか誇らしげな表情に目を奪われたせいかもしれない。

「お前がいてくれてよかった」
「宗家?」
「斬って、斬って、斬って拓いた道の先、鳴り止まぬ斬響、月を写しとった刀身、刀という頂を信じることができる。届かぬそれを垣間見ることができた」

 月柳流剣士の誰もが目指す、唯ひたすらに刀へ到ろうと。然れど、なし得る人間は長い歴史を振り返ってもどれほどいるのか。
 あまりにも高い頂は見えず、そこに掴むべきものがあるのか誰にも分からない。分からないものを信じ続けるのは難しい。
 だが、と八雲は源柳斎の頬に手をあてる。
 源柳斎の斬撃の向こうに見えるものがあった。

「悔しく思う心もあるが、お前の生きる時代に存在できたことが私は嬉しいんだ」

 疲れたように腕を落とす八雲に、源柳斎は黙したまま布団をかけ直す。

「ありがとう……ああ、そうだ。迷惑ついでに蝶丸を呼んでくれないか? 少し話があるんだ」
「蝶丸を……承知しました」

 頷いて部屋を辞した源柳斎は蝶丸を探して少し歩きまわり、ようやく見つけた姿に声をかけた。

「あに様、如何なさいました?」
「宗家がお呼びだ」
「宗家が……」

 少し考えてから頷いた蝶丸は一礼してから急ぎ足で向かう。話があると言っていたので源柳斎が同行することはないが、少しだけ胸に何かが湧くのを感じる。朝もやのように朧気でひんやりした何か。正体分からぬそれは心地いいものではなく、源柳斎は振り斬ろうと久方ぶりの道場へ向かった。



「宗家、蝶丸にございます」
「入ってくれ」

 障子を開いて入室すれば、布団に横たわる八雲がいる。

「こんな姿ですまないな」

 少し前までの八雲ならば、上体を起こして応対しただろう。それだけ具合が悪いのだと察して蝶丸は眉を下げる。

「そんな顔をするな、源柳斎が心配する」
「……御用があってのことと思いましたが」
「ああ」

 小さく頷いて、二秒ほど目を瞑った八雲が次に蝶丸を見た時。その目は鋭い鋒の如き光を放っていた。

「――頼んだ」

 何を、と訊き返すことを、蝶丸はしなかった。
 訊ねずとも分かった、感じた。
 思い出すのはいつかの夜。ダンボール纏う源柳斎を蝶丸と八雲だけが心から信じた。果たしてそこに今がある。源柳斎は誰よりも頂に近い。そして、そのままに刀へと到るのだ。そう、ふたりはあのときのように信じる。
 それなのに、八雲の言葉。
 蝶丸の震える唇に、頬を伝う雫が染み込んだ。

「……っ御意」

 手のひらから血が滲むほどに握り締めた拳を畳の上に、蝶丸はぐっと頭を下げた。それを見届ける八雲はほうっと息を吐き出す。

「――これで安心できる」

 その三日後、中々起床してこない宗家を不審に思った家人が寝室を訪い、布団の中で永の眠りについた八雲を発見。司馬家は、月柳流は大騒ぎに見舞われる。
 元より虚弱体質、伏せることの多くなった八雲に誰もがどこかで感じていた不安が現実となった。
 悼む声と同時に、どうしても避けられない話がある。
 八雲は次期宗家の指名をしていなかった。
 司馬の血筋から選ばれるため、順当であれば白雨以外にいないのだが、白雨は未だ幼いこどもである。
 白雨だけならば、白雨以外にいないのであれば、問題はなかった。
 司馬家には、源柳斎がいた。
 先代宗家直系にして、月柳流最強を誰もが認める源柳斎が。

「先代は既に亡い、ここで血筋を正すのも……」
「なにを馬鹿な、一度は廃嫡された身であるぞ」
「なによりも白雨様の存在が……」

 古参の門人たちが喪服姿で侃々諤々と言葉を交わす。そこに当人である源柳斎の姿も、白雨の姿もない。
 当人たちを置き去りに、周囲ばかりが「月柳流の先」を語る姿は、刀へ到るに邪魔であると八雲が断じた月柳流への固執そのものだった。
 悼みの声が少しずつ薄くなっていく。
 私利私欲に始まったものではない、誰もが真面目に考えている。それでも、厭な空気だった。
 しかし、その空気を上塗りするように、抑えても抑えきれないおぞましき鬼気が漂う。
 月柳流剣士たちが一斉に顔を向けた先、潔志が遅参を詫びながら現れる。
 注目を浴びていることに気付いた潔志はきょとんとした。その顔はまるで門人たちの話など聞いていなかった様子で、注目される理由に思い当たることもないと首をひねりながらその場からいなくなる。
 潔志が立ち去るまで息を止めていた門人たちは大きく息を吐き、それきり重たい沈黙に身を沈めた。

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あきゅろす。
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