小説
三十一刀
初太郎に仕事のことで相談された源柳斎は、手早くまとめた資料とともに初太郎のもっとも納得行くプランを提示して大変感謝されながら別れた。ゆっくりと茶を飲もうにも、相談自体が急ぎの案件だったようで、何度も頭を下げる初太郎に源柳斎は苦笑いする。
特に他の用事もなく、今の御時世恐らくは買い物などで不便な地元では手に入らないもの、必要なものを蝶丸たちに訊いても問題ない様子だったので、源柳斎は躊躇なく直帰するつもりだった。
しかし、電車を乗って二駅ほどの辺りで起きた人身事故。幸いにも飛び込み自殺という哀しいものではなかったが、強風に煽られて障害物とともに線路へと倒れた挙句に足を捻って二進も三進も行かなくなったという次第らしい。ただの人身事故でも最短で三十分は再開までかかるが、障害物の撤去を考えると増々時間がかかるだろう。待つこと自体は苦痛ではないが、地元近くの電車の本数を考えるとちょっとした時間のズレが長距離徒歩移動を招くことになりかねない。この長距離は山を駆けまわってけろっとしている源柳斎にとっても長距離に数えられるのだから、相当な距離である。
仕方なく路線を変えるかと思った源柳斎だが、どうにも一端駅を出てバスを乗り継いだほうが都合がいいようだと気付く。
見知らぬ駅であってもバス停はそばにあるのですぐに見つかる。禁煙のはずなのに妙に煙草臭いバスに揺られて暫く、運転手からアナウンスが入った。
「えー、次は鎮劔神社前、鎮劔神社前です」
椅子に腰掛け腕を組み、静かに目をつむっていた源柳斎だったが一気に瞼が開く。
すごく、聞き覚えのある単語が聞こえた。
態々確認するのも妙な話だし、源柳斎は眉間に皺を寄せながら窓の外を見る。アナウンスが入っただけにバス停の看板が遠くに見え、同時に常緑樹が生い茂っているのが窺えた。
微かな揺れとともにバスが停車する。蒸気を吐き出すような音をたて、ドアが開いた。バス停にひとはいないが、三分ばかり停車するようだ。
源柳斎は嫌な予感がしていた。
普段であれば他者のことを慮って考えないことだが、今すぐ発車してくれないだろうかとすら思っていた。
「間もなく発車します」
運転手のだみ声に安堵した瞬間、源柳斎は随分と慣れてしまった気配を感じ取る。
「すみません、乗ります」
急いだのか弾んだ声、ドアから滑るように入ってきたのは童顔の男。
空いた席に座ろうと、源柳斎のほうを振り向いた顔が輝いた。
「源柳斎!」
「……やはりか」
偶然、同じ名前の神社だったらな、とささやかに願っていたのだが、その願いを斬り刻むようににこにこと上機嫌な潔志が通路を挟んで隣に腰掛ける。
「どうしてこんなところにいるんだ? ひょっとしてうちに参拝していた?」
「……別件の用事があった。通りすがりだ」
「そのまま寄ってくれればよかったのに。いつも世話になっているし、お下がりの御神酒くらい土産にあげるけど?」
「気づいたのは先ほどだ。勝手に神酒を土産にするな」
「いいんだよ。神職は飲兵衛しかいないから酒は売るほどある」
そう言って潔志が笑いながら話すのは、神職間での集まりという飲み会があったとき、用意されていた日本酒が二級だったが故にあっという間に飲みつくし、じゃんじゃかひっきりなしに追加注文して店員たちがわあっと鬼のような形相で酒を運びに練り歩き続けた様子がおかしかったという話。
「最初から特級用意していればねえ。まあ、級別制度はもうないけど」
潔志はけらけら笑うが、下戸も下戸な源柳斎には想像もつかない話だ。恐らく、その場にいただけで漂う酒の匂いにやられる可能性がある。
「そういえば、この後どこかに行くのか?」
「いいや、帰る」
「ふうん? この時間じゃ昼食もまだだろう。せっかく会ったんだ、一緒に食べよう!」
源柳斎の口角が僅かに下がるが、潔志はささっと取り出した携帯電話で食事の美味い店を探し始めた。そこで、ようやく源柳斎はまじまじと潔志を見る。
「ん? なに?」
「……今日は、洋装なのだな。それに……」
剣も、それが包まれている刀袋もない。
潔志は苦笑いする。どんなものであれ、よく笑う男だ。
「白衣に袴は制服だし、作務衣は作業着だよ。スーツの一着や二着は持ってるし、普段は洋服だ。
それに、四六時中あれを手元に置いているわけじゃない。気づいたら手元にあることもあるけど、御神体だぞ?」
その御神体で斬りかかってくる神職など、話だけ聞けば神罰にでも当たって気が触れたとしか思えない。
しかし、不思議な部分がある。
「気づいたら手元に?」
「そう。そもそも家族だけでやってるわけでもない神社で若い俺が禰宜をやっているのも、俺があれに気に入られたからだよ。俺は鎮劔神社から、あれから離れられない。まあ、その気もないけど」
まるで手の中に剣があるかのようにぐ、ぐ、と握って開く潔志は少しだけ懐かしそうな眼差しで宙を眺める。
「俺は昔から風変わりとか浮世離れしてるとか言われて育った。自分でもなんだか地面がふわふわしていた気がする。そのせいか、それ以外にも理由があったのか、神子様だとか依代だとか呼ばれてたよ……現代社会で口にするとカルトっぽくなるな。まあいいや、それで五つになるかならないか、多分なっていないな。神隠しにあった」
ぽつぽつと語る潔志からは剣を握っているときのようなおぞましい鬼気はなく、鬱陶しくはしゃぐ様子もなく、本人が話したようにどこかふわふわと現実から薄皮一枚分浮いているような、遠いような錯覚を源柳斎に与えた。
「なにがあったのか、よく覚えていない。夜に布団で寝て、気付いたらあれの社の中であれを抱いて倒れてた。三日間、俺はいなかったらしい」
「……よく、ということは、多少は何かを覚えているのか?」
好奇心があったわけでもないのに、源柳斎の口は訊ねる言葉を落とす。
「…………なんだろう。なんと説明すればいいかな。あるがまま……人間、生き物、そのものというか、剥き出しで、生まれたまま、そのままのなにか。
――俺をそれを見て、初めて斬ろうと、斬りたいと思ったのだよ」
潔志の口角が歪む。笑みに見えるが、それはひどく引き攣っていた。
斬りたい、と。
潔志が斬撃を語るにしては、そこに悦びを感じられない。
潔志の横顔を凝視していた源柳斎はふと窓の向こうに生い茂る雑木林が広がっているのに気付く。濃くて暗い色のせいで、窓が源柳斎に見えぬ側の潔志の顔をも映す。
思わず窓の向こうではなく窓を見つめた源柳斎は、次いで怪訝な顔をした。
「うん? ああ……」
源柳斎の様子に気付いた潔志が一瞬眉を上げるが、すぐに視線を誰も座っていない自身の隣、窓側の席に向ける。
いつの間にか、そこには紫色の刀袋。
中身をなぞるように指先を這わせる潔志は、ようやくいつものようにおぞましかった。
「お前、弓削くんにどんだけ甘やかされてんのっ?」
潔志に連れられて入ったカレー屋は本場を謳い、スパイスの豊富さが売りだったが、普段、果物や野菜をたっぷり摩り下ろして甘い味付けにされ、しっかりと処理した新鮮な肉で作られた蝶丸のカレーしか食べない源柳斎には全てが無理だった。
口元を抑える源柳斎の分までカレーを平らげた潔志もまた口元を抑える羽目になったが、彼は何も言わずに源柳斎の分まで支払いを済ませようとする。
「待て、払う」
「いいよ。店選んだのも食べたのも俺だし」
「流石に申し訳ない……せめて、これを使え」
「……なにこの折り紙メダル」
「優待券だ。ここでも使える」
「これがっ?」
嘘だろ冗談だろという顔を隠さない潔志だったが、これだけ体調不良を起こした源柳斎がこんな冗談を飛ばす余裕があるわけもないと半信半疑で折り紙メダルをレジに出すと、案の定バイトの青年が怪訝な顔をする。
「……ほら、やっぱりだめ……」
「っ黛様親衛隊特別感謝メダルだとぅ!! きみっ、どきたまえっ。申し訳ございません、来店時にご提示いただければ最優先で最上級のおもてなしをさせていただいたのですが、いたらぬ我が身を恥じ入るばかりですっ、黛様申し訳ありません!!」
青年を押し退けて店長と書かれた名札をつけた男が飛び出してきた。猛烈な勢いで謝罪と日々の感謝を床に膝をつけて捧げる店長だが、M61バルカンの如く放たれる止めどない言葉は全て「黛様」なる人物に向けられている。
「……誰だよ、黛様」
「……知らぬ」
十年近く経ってようやく日の目を見た折り紙メダルだが、ただ貰っただけの源柳斎にその由来は伝わっていなかった――
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