小説
わたしのなかの一番大切なあなた(前)〈ヘリオトロープ〉



「結婚してください」
「……海外行くぅ?」



 馬鹿を見る目で見てくる恋人、美由は三十路に突入したことが信じられないほどに容色に陰りが窺えない。むしろ磨きがかかっている。そんな美人の恋人に支えられながら指揮をとる仕事は順調そのもので、あやめの人生に目立った憂いはなかった。
 なかった、はずなのだが。

「あなたの出自を思えば、これ以上外国の血を引き入れるのは好ましくないと分からないわけではないでしょう」
「待て。待て待て待て」
「待っていられません。あなたもう三十超えているのですよ? 結婚してさっさと女孕ませてください」

 常の冷めた仏頂面で連ねる言葉は果たして恋人が恋人に向けるものだろうか。真っ当な世間様の常識に照らし合わせれば破局待ったなしである。
 だが、額に脂汗を滲ませるあやめは引き攣り笑顔の裏で「とうとう来やがった」と十代の頃に覚悟した予想が現実のものになったことに丹田へ力を込める。
 そう、予想済みなのだ。
 散葉美由という男は真っ当な感性をしていない。どころか実の兄をして気が違っていると言わしめ、それは美由を溺愛するあやめであっても否定の言葉をひねり出すのは難しい。
 気付かれぬように深く息を吸い、あやめはテーブルを挟んで向かいのソファに掛ける美由へ視線を合わせる。見返す眼差しには重たい覚悟も決意もなく、ただただ自然体。だからこそ厄介だ。

「美由」
「はい」
「俺は結婚する気はない。いや、お前と海外行ってとか国内でも結婚式だけ挙げるとかなら話は別だがな?」
「却下。論外です」

 プロポーズ紛いの言葉は即答で断られた。だが、あやめは挫けない。こんなことで挫けていたら伊達に十数年、美由と恋人関係を続けていない。

「俺とお前の関係は?」
「恋人ですね」
「それでも俺に他の女と結婚して子ども作れって?」
「左様です」

 美由は考えるように一瞬視線を斜めに飛ばしてから、ひたり、とあやめに向ける。

「あなたは白雪の当主です」
「あぁ」
「それも、元々は後継ではなかった。正統な跡継ぎを廃嫡させて今の地位にある。その上、まともに結婚もせず、子どもも作らない? 御家を乱し、荒れさせるつもりですか」

 美由の言葉は正しい。白雪家当主のあやめはすぐにでもそれなりの家から妻を娶って跡継ぎを作るべきだ。だが、あやめ個人にその気はない。自分には美由がいる。結婚そのものに気が乗らず、またしたとしても妻子ともに不幸にするだろう。あやめは美由を手放す気がなく、しかし妻には浮気を許すわけにはいかないという身勝手を強いることになり、子どもはそんな両親に挟まれてどんな育ち方をすることか。

「……養子をとる」
「周囲が納得する血筋で、跡継ぎとしての教育が間に合う年齢の子どもに当てがあるんですか?」

 睨むように美由を見遣って、あやめは頷いた。
 美由が跡継ぎ問題を持ち出すことを予想していたからこそ、あやめは既に手を打っている。にも関わらず動揺したのは、考えていた以上に美由から他者との結婚を迫られることに重苦しい感情を抱いたからだ。

「初太郎の子どもがいる」

 美由の眉が顰められる。
 あやめが押しのけた元白雪の後継、腹違いの弟。あやめは初太郎と白雪の繋がりを絶たないように当時の当主だった公彦に願っており、それは叶えられた。

「白雪の『血統』が正される。年齢も幼児となれば問題はないだろう。葛谷なり花岡なりに入る準備期間も間に合う」
「本気で言っているのかしら」

 口調の変わった美由の細められた目に怯まず、あやめは腕を組んで鼻を鳴らす。
 初太郎との間には確執しかない。初太郎を白雪に戻すとなれば周囲はまた騒ぐだろう。だが、初太郎を白雪に迎えるわけではない。出入りを解禁することはあっても、迎えるのは初太郎の息子だ。

「あなたの弟があなたに息子を養子に差し出すかしら? 子どもの母親が教育のために全寮制の学校に子どもを入れると言われて納得すると思っているの?」
「させるんだよ」

 じっと睨み合い、先に視線を落としたのは美由だった。一言繰り返すように「左様ですか」と呟く声に、あやめは第一関門を突破したと内心で息を吐く。
 これからが正念場だった。



 初太郎のことは定期的に調べている。
 一時は荒れていたようだが、今はまるで穏やかに幸せな家庭を築いているという。そこに水を差すような真似をするのは妻子に対して申し訳ないと思ったが、あやめにも譲れないものがある。
 連絡をとったとき、初太郎は酷く狼狽していたが、それでも拒絶されることはなかった。意外だったが好都合だ。
 日時を決めて久しぶりの邂逅、現れた初太郎は当然だが大人の男だった。煩いほどの闊達さは落ち着き、あやめを窺う眼差しは緊張を孕んでいる。

「……久しぶりだなぁ」
「……うん、久しぶり」
「突然呼び出して悪かった。こっちが出向くべきだったが、大っぴらに俺との関係を表面化させるのは好ましくないかと思ってな」
「……そうだな。今、幸せだから……周囲が煩くなるのは嫌かな」

 あやめは感心した。遠回しに厄介事を持ち込むなと牽制する姿は十代の頃にはなかったものだ。

「本題に入れよ」
「そうか、じゃぁ単刀直入に言う」

 強い眼差しの初太郎に向かい、あやめは頭を下げた。

「お前の息子、和也を俺の養子に下さい」

 あやめには譲れないものがある。手放せないものがある。それを守るためなら散々煮え湯を飲まされ、ようやく放逐させた初太郎に頭を下げるくらい、どうということがあるだろう。それに、初太郎に思うところがあったとしても、その妻子には関係ない。見せられる誠意は幾らでも見せよう。

「……待って、待ってくれよ……和也を養子に?」
「俺は結婚する気がない。白雪には跡継ぎが必要だ。正統な血筋の跡継ぎが必要だ」
「なんでそれが和也なんだよ……俺を白雪から出したのは……」

 顔を引き攣らせ、指先を震えさせる初太郎に、あやめは公彦との白雪における初太郎の取り決めを説明した。初太郎は白雪から完全に絶縁されたわけではない。
 呆けたような顔をする初太郎は混乱を鎮めるためかぎゅっと目を瞑り、額を片手で押さえる。畳み掛けるつもりではないが、後出しにならぬようにあやめは初太郎へ、和也に求めるものを更に説明した。
 白雪は小さな家ではない。当主の教育となれば幼いうちからしておきたい。そのために全寮制の学校にという話に初太郎は顔を上げた。

「全寮制って……」
「できるなら、葛谷学園に入ってほしい」

 屈指の名門、卒業生は超一流の名を約束されている。その葛谷学園を出てしまえば、もはや確執など些細な問題にしかならない。能力があるという言葉以上に強いものはないのだ。能力で初太郎から後嗣の座を奪ったあやめが言うのならば、尚更。

「っなんで、いきなりこんな話を持ってくるんだよ……! 俺は、俺たちはようやく普通に暮らしてて、穏やかで! それなのに、なんでこんな波風たてるようなことを……っ」
「……すまない」

 初太郎に対してこんなにも申し訳なく思うときがくるとは想像もしていなかった。あやめは詫びる。初太郎の前に敷かれたレールを壊したことに罪悪感はないが、葛藤を鎮めて得た平穏を乱したことにはひたすらすまないと思う。
 けれど、引くわけにはいかないのだ。
 あやめが繰り返す説明に初太郎は「妻とも相談しなくちゃならない。また連絡するから時間をくれ」とようやく絞り出し、その日は別れることになった。

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あきゅろす。
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