小説
Sweet or Richmilk(後)
「お嬢様が俺に泣きついてくるなんて夢にも思いませんでしたよ。明日は槍でも降るんですか、グングニルやらゲイボルグやらブリューナクやら大盤振る舞いですか。おお、お嬢様の気まぐれで今ラグナロクが……!」
「煩い、黙れクズ」
顔は笑っていないくせに、白はニタニタにやにや雰囲気が抱腹絶倒している。
今すぐにでも顔面を潰してやりたい気持ちだが、相手をときにねじ伏せることが本職とも言える白にはどう足掻いても通用しないだろう。
ざぐざぐとチョコレートを刻む手に力を入れながら、美由は眉間に皺を寄せる。
「石畳やらトリュフなら楽なんだがねえ。手抜き禁止やら全力やら難儀なことで」
「そこでザッハトルテ勧めるあなたもあなたですよね」
広い台所は男が三人いても窮屈ではなく、ひとりやることのない隼はシロップで似たオレンジを乾かしたものにチョコレートをくぐらせている。一手間かけたオランジェットはいい香りだ。
「いいじゃん、ザッハトルテ。手の込んだデコレーションしなくても見栄えいいし」
「温度管理クソ面倒くさいじゃないですか。あなたは温度計もなしに作れますけど」
「ガナッシュで代用する手もあるが、手抜き禁止なんですよねえ?」
「煩い、黙れクズ」
「お嬢様、それ二回目」
「不愉快な呼び方をいい加減にやめろ、このクズ」
「あらやだ怖い」
ちっとも怖がっていないくせにわざとらしい言葉が癪に障る。苛々しながらも手元は正確に動き、チョコレートを刻み終えた。下準備は全て完了だ。
「はい、じゃあチョコ湯煎にかけまーす。火にかけた鍋に湯を張って上にボール置けば早いんだが、温度管理気をつけないとチョコレートの風味飛ぶんで、今回はじっくりといこうと思います」
温度計を突っ込んだボールに五十五度ほどの湯を注いで、一回り小さなボールを浮かべる。刻んだチョコレートを入れればすぐにじっとりと溶け始めた。
この季節では室温ではバターを放置しても中々柔らかくならないので、軽く電子レンジにかけたものを別のボールで粉砂糖と混ぜる。白っぽくふんわりとさっくり切るようにはケーキ作りの上で必ず出てくる言葉である。
手抜き禁止とはいえ文明の利器の使用を制限されたわけではないのでハンドミキサーも活用するのだが、隼とふたりで「久しぶりに出しましたね」「ねー」と言っている辺り、白が腕力にものを言わせていることが窺えて美由は舌打ちをしたくなる。滅多にお菓子作りをしない人間にとって、それは男であっても生クリームやメレンゲを手動で泡立てるのは辛いのだ。
材料を混ぜて出来上がった生地を形に流し込み、ようやく一段落。使ったものを洗い終えた美由に柚子蜜湯が差し出される。
「どうぞ」
「……どうも」
白に対する感情は最底辺突き破って地の底を抉っているが、初対面である隼にまでその感情を広げることはない。
一口飲んだ柚子蜜湯は、内側からじんわりと暖かくなるようなやさしい味をしている。
ちらりと見下ろしたオーブンの中で焼かれている生地は、どんな味がするのだろうか。人間性は唾棄しても、技能自体は認めている白が特に何も言わなかったのでレシピ上は問題ないのだろう。
「にしても、なんだってやる気出したんだよ」
ごきゅごきゅと柚子蜜湯を飲んだ白が、ようやく厭味ったらしい口調をやめて問いかける。
「罰ゲームみたいなもんで始まったんだろ。しかも、相手から直接お願いされたわけでもなし、お前が一々真面目に取り合う理由にならねえわ」
「……なんでもいいでしょう」
「講師代」
間髪入れない白に美由は今度こそ舌を打つ。こういうところも嫌いだ。
思い出すのはあやめのこと。
嬉しいと言うから。
「喜んでもらえるのならば、それを全力で叶えたいだけ」
白は愉快そうな色を飴色の目に乗せたが、口に出して美由を揶揄することはなかった。
オーブンが鳴る。
グラズールを作るのは大変だった。
「うわ、室長……なんというか、流石室長……」
確認役としてついてきた部下たちがざわざわと騒ぐ。ひとりいれば十分だろうに、冷たく厳しく仕事の鬼である上司が飲み会でのゲームの結果を律儀に守る様子が大層面白いようで、我も我もと野次馬が集まった。就業時間であれば檄を飛ばしているところだ。
常の冷めた仏頂面で渡された小箱を受け取ったあやめは、礼とともにいそいそと箱を開けて「おぉ、ザッハトルテ」と幾分感動したように声に抑揚をつける。
大事そうに蓋を閉め、美由を見上げる顔はビジネスの顔を保ちながらも嬉しそうで、私人となればこれでもかと喜んでいることだろう。
「ありがとなぁ、ホワイトデー期待しておけよ」
「業績でお願いします」
「……三倍は厳しいな?」
業績を三倍に伸ばすのは無茶ぶりにもほどがある。
社員がひそひそと「甲斐性なし」と呟くのに、あやめは「聞こえてんぞぉ」とじっとりした視線を向ける。へらっと返る愛想笑いが白々しい。
「ったく、ろくでもねぇ奴らだなぁ、おい。これ、冷蔵庫にしまっといたほうがいいよな」
ザッハトルテの入った箱を掲げるあやめに美由が返事をするより早く、社員たちが自分のところで預かると主張を始める。
「……一口でも食ったら連帯責任でお前等全員ボーナスカット、食った奴はクビな」
「そんなっ、私達だって室長手作り食べたいです!」
「三時間並ぶ絶品スイーツより絶対にレアなんですよっ?」
「やっぱり食う気満々なんじゃねぇか、ふざけんな!」
あやめと社員のこどもじみたやりとりに呆れた眼差しを送った美由は、ため息混じりに告げる。
「オランジェットを別に用意していますので、おやつにどうぞ。それよりも、そろそろ時間ですよ。戻りなさい」
歓声を上げ、社員が足取り軽く散っていく。どこまでも現金である。
残された美由は軽く肩を竦め、どこか愉快そうな顔をするあやめを見遣った。
「なにか?」
「あいつら用にも作ったのかぁ?」
「まさか。土産に貰ったものの横流しですよ。バレンタインですから……選ばれたあなただけに、特別です」
「なに買わせる気だぁ、この野郎。なんでも買ってやるよ」
冗談めかして笑う美由に、あやめも喉の奥でくつくつ笑う。
一瞬だけ熱を乗せて交錯した視線はしかし、すぐに仕事用の低温へ変わり、それぞれ仕事の段取りで幾つか話し合うとそれぞれの仕事に向かっていく。視線が逸れる刹那、ふたりの口角が僅かに上ったことに気付いた者はお互いしかいないだろう。
ああ、まったく、バレンタイってやつは。
甘やかされるのも、甘やかすのも悪くない。
甘ったるいのは悪くない。
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