小説
一刀
月柳流は剣道ではなく剣術の流派である。
振るう刃は月の冴え、振るわれる刃は柳が如しを以って流す。
その最終理念は唯一つ。
――刀へ到ること。
難解且つ不可解なそれは創始以来歪まず変わらず伝えられてきたが、その意味を正しく解せる者は久しい歴史を紐解いてもどれほどいるか。
刀へ到るという言葉から、殺人刀へ堕ちた者は数多い。そうではない、それは間違いである。断じることはできても、では何が正解なのかと問われれば黙するより他ない。
悩み、考え、辿りつけぬ頂に挫け、ただ武に携わるためだけに落ち着いた者が殆どだろう。
そも、月柳流が現代においても凋落の末に朽ちる気配がないのは、その実戦性から警察御用達となっているからだ。もっとも、月柳流は剣道ではなく剣術を教えている故に段位への拘りは薄く指導するのに必要だから取得している場合が多く、剣道の型は深くは教えないので警察学校で慣れるまで苦労する。竹刀道とも揶揄される打ち合いは月柳流に馴染みがない。
しかし、試合に出れば打ち合う間もなく決め、実戦であれば培った歩法や相手の動きを察する目がこの上なく役に立つ。
「月柳流の出の奴はすぐに分かる。あいつらはすごく静かで……確実に仕留めにくるんだよ。実際に刀を持っているわけでもないんだが……刀で斬られればお終いだろう? あいつらの一撃は当たれば必殺。そういう気迫がある」
警察学校で長く教授を勤め、剣道の名誉師範である男はしみじみと言う。
「警察になって、どうしても片手間に磨くしかなくなったそれを誰かのために振るおうって連中でそうなんだから、一心に理念へ向かって突き進み続ける奴らはどうなのか。考えるだけで怖いよ。でも、その怖さが必要だ。だから俺たちは月柳流には色々目を瞑るんだよ」
年齢にそぐわぬ硬い手に握る冷たい鋼。
振るう。
斬る。
一心に斬る。
無心へと落ちそうな心を鋼にしがみつかせ、源柳斎は斬った。
音すらも斬り、感じるのは冷たい静寂。それを引き裂くのは種類の異なる熱、凍えた刃。
「あれが宗家として立つなど……」
「太刀筋は確かに見事と言えるが、あの形では月柳流の名が落ちよう」
「銀之丞様が生きておられれば、相応しき嫁御と娶せて正統な子を望むことができただろうに」
「あれのために銀之丞様が身命を賭す価値があったとはとても……」
冷たくも感じていた熱が凍えていくのを感じて、源柳斎は小さく震える。
冷たい刃に斬られるのは、熱い。
けれど、凍えた言葉に切られれば熱などどこにも感じず、ただ朽ちて割れていく。
「源柳斎、私の相手をしてくれないか」
振るうことのできなくなった刀を、それでも手放すことなく握り締める源柳斎にかかった暖かな声。源柳斎にこうして声をかける人間は極限られている。振り返れば、やはり予想に違わぬ姿があった。
「八雲殿」
「相変わらず堅苦しいな。従兄弟同士なんだぞ? 呼び捨てで構わないよ」
苦笑いするのは源柳斎よりも五つ年上の従兄弟で、名を八雲と言う。その涼しげな面差しは源柳斎が写真でしか知らぬ父、銀之丞によく似ていて、月柳流門人曰く太刀筋も業前も若き頃の銀之丞をなぞるが如きであるそうだ。
「そういうわけには……」
「無理にとは言わないさ。それで、どうするんだ?」
「……私でよろしければ」
「ありがとう」
互いに得物を構えて向き合えば、途端に道場は静まり返る。
真剣向け合うなどと見るものが見れば目を剥いて止めるだろうが、殊月柳流であれば当たり前の光景である。
斬るか斬られるかをじりじりと図ることはしない。
斬るのだ。
刀は斬るのだ。
躊躇えば斬ることなどできない。
斬れば斬れる。だから斬る。
源柳斎も八雲も考える、感じることは同じだった。
「――斬る!」
流星のように瞬く銀閃は風を受けた柳の動きで交わし、三日月を描くかのような剣閃を以って返す。
決して刃は交わらないのに、一閃ごとに命へと手が掠める。
音なき艶舞はひたすら相手の魂へと迫るからこそ美しい。
刀へ到る。
月柳の流れを汲んだ瞬間から目指すべき頂、そこへ続く道が分からないのに斬るべく斬れば確かに感じる。その先に冷たくも完成した切っ先があるのだと。
斬れば感じるそこに、斬れば辿り着けると肉ごと命を絶ち斬った者が月柳流には多くいる。然れど、その者たちの誰一人として到った者はいない。到るべく上ったはずが、ただ殺人刀へと堕ちるのみ。
斬るから斬れる。それが斬るために斬るへと転じた悲劇。
その悲劇はすぐ傍らにあり、月柳流の頂を目指して正道を進むは刃の上を渡るように難しい。
「それでも、斬る」
「だからこそ、斬る」
源柳斎と八雲の刃が初めて邂逅の声を上げる。それは、同時に悲鳴でもあった。
散った火花を追いかけるように、宙へと舞い飛んだ銀色。
目を見開いた源柳斎の首筋に八雲の絶刀が迫り、ぴたり、と静止した。
「……まさか、折れるとは思わなかった。予想外だよ」
「……それでも驚き停止した私と八雲殿は違う。修行不足だ」
刃を引いて収める八雲に礼をして、源柳斎は自らの刃とそこから分かたれた破片を見遣る。
「おお、さすがは八雲様だ」
「やはり、次期宗家には……」
静寂は死に絶え、硝子を割って降らせるような言葉の数々が注がれた。
きゅ、と口を引き結び、源柳斎は破片を拾う。
(これも死んだのか)
銀に輝いていたはずの刃から分かたれれば、破片は鈍色に曇って見える。しかし、その色さえも妙なる美しさだと源柳斎は破片を拾う自身の浅黒い手を見て自嘲した。
「源柳斎、私はお前と同じ歳にここまでの剣閃を描けなかった。お前はまだまだ強くなるよ」
「…………過分な賛辞です」
「源柳斎、私はお前こそが……」
「八雲殿」
続く言葉は苦痛だ。
口を閉ざした八雲に礼をして、源柳斎はその場を立ち去った。
「いかに直系であろうと、外つ国の血が色濃いあれが月柳流に立てるものか」
望んでこの形に生まれたわけではないのに。
斬れるものならば、源柳斎は我が身こそを斬りたかった。
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