小説
彼女の憂い
うさぎには「己」というものがない。
好きなものもないし、嫌いなものもない。
猫をかわいいとは思わないし、逆に虫を気持ち悪いとも思わない。
うさぎの中身は空っぽだ。
「じゃあ、なにか素敵なものを詰め込もうよ!」
そんなことを言ったひとがいた。そのひとに連れられて、うさぎの働かない表情筋は少しだけ運動を覚えた。
ぽっかり空いていた胸のうち、ほんの少し埋まった温かいものが大事になって、うさぎはこれをくれたひとのことが好きになった。
どうしたらお礼ができるかしら。
空っぽの頭で一所懸命考えて、そのひとが喜ぶことをしようと決める。
そのひとには大事なだいじなお友達がいたので、いつ死んでもおかしくないようなお友達がいたので、そのひとと長く、楽しくいられるお手伝いをしようと思ったのだ。
けれど、うさぎにはその方法が分からない。
そんなときにされたお願いごとだから、うさぎは喜びうなずいた。
「この子と仲良くなってね」
説明されたのは、うさぎよりも少し年下の男の子。目の悪いうさぎは写真を見てもよく分からないけれど、男の子は大抵いつもひとりで遊んでいるようなので、そのときを見計らえば問題ない。
うさぎには友達がいない。だから、ちゃんと仲良くなれるかどうか不安だったけれど、男の子は快くうさぎを受け入れてくれた。途中で女の子とも仲良くなって、それを報告したら褒められたので嬉しかった。
その日もうさぎは男の子と遊んでいた。女の子は家の手伝いが忙しいらしくて今日はこれないようだ。別に構わない。少し、胸がすうすうしているような気がするけれど、気がするだけだ。
おままごとをして、土団子を作って、追いかけっこをして、疲れて休んでいると、公園の入り口から男の子を呼ぶ声がする。
「あ、熊のおじちゃん!」
「そろそろ昼飯行くぞ」
「分かりました。うさぎちゃん、今日も楽しかったです」
「そう」
「また明日ね」
「うん」
男の子の気配が離れるので、そちらに向かってうさぎは手を振る。気配の探り方、目が見えないことを相手に悟らせない方法は、教えてもらってもう随分久しい。
今日も男の子に何一つ悟らせることなく「仲良く」したうさぎは満足して帰路につく。
うさぎの家は広い。家主が大事なお友達のために水槽や植木、美術品などをたくさん置いているからだ。
うさぎは壁を触らずとも分かるほど慣れた廊下を歩き、家主に今日の報告をしにいく。
「黒狼、帰った」
「おかえり、うさぎ」
家主、黒狼はなにかの本を読んでいたらしい。ぱたん、と本を閉じる音がする。
「今日はどうだった」
「いつもどおり。お迎えにダーティベアがきていた」
「そう。なにか言われなかった?」
「なにも」
「そっか。ああ、そうだ、うさぎ」
「はい」
黒狼に頭を撫でられながら、うさぎは返事をする。
「近々、キャットくんをうちに連れておいで」
「分かった」
どうして、などとうさぎは問わない。黒狼のお願いを聞くのに理由はいらなかった。
でも、ただ。
男の子、キャットは酷い目に遭うんだろうな、と思うと、また少しだけ胸がすうすうした。
「どうしたの、うさぎ。胸をおさえて」
「なんでもない」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「そう、ならいいや。部屋に戻っていいよ」
「分かった」
うさぎはくるり、と回れ右をして、入ってきたドアから出て行く。
キャットといるときはふたりきり、ときに三人きりなのに、この家にはたくさんのひとの気配がするというのに、どうしてだろう。この家の中は寂しいな、とうさぎは思った。
「さすがに吸ったわけじゃないから感度鈍いわね」
「見逃しましたか?」
「店を隠しながら『街』全体への暗示強化、加えて追跡なんてのはまだ無茶みたいよ」
ママは悔しげに舌打ちをしながらスツールに腰掛ける。
昼休み、店の中に客の姿はない。
ママはその時間を利用して、以前VAMPIREをかぎまわっていた連中がどこへ帰っていくのかを探っていたのだが「街」を出た辺りで見失ってしまっていた。
「感知能力が上がった分、吸血鬼の特性も上がりましたからね」
「日焼け対策が大変よ。ああ、あんなに気持ちよかった日差しだったのに」
長く野菜の生気で生きていたので、ママたちの吸血鬼の特性も形を潜めていたのだが、ママは長年の禁を破ってくちなわの血を飲んでしまっている。吸血鬼としての能力は上がったが、その分「吸血鬼らしく」なってしまったのだ。
長時間日光のもとにいると異常に疲弊し、聖句を聞けば吐き気をもよおす。
「逆に完全に吸い上げてしまえば、それらも克服できるのに、しないんですか? 原種の吸血鬼アルクエルド」
数多い弱点も原種となれば無効化できる。ただ、ママはベジタリアン生活が長かった弊害が出ているのだ。
「だからしないって言ってるでしょ。刑事さんとは対等でいたいのよ」
「他のひとから吸えばいいじゃないですか」
「嫉妬した刑事さんに焼き討ちにされそうよ」
「それはあるかもしれませんね。なんといっても彼の弟さんは神父ですし」
「聖書の角で殴られるかもしれませんね」とクロが軽口を叩けば、ママは「刑事さんはそんなDV男じゃないわよ」とつん、と唇を尖らせた。
「でもサディストよね。ひとにこんな甘美な苦痛を与えてくれるんだから」
甘い、あまい血の味は、今でも思い出すだけで喉が渇く。
極限まで乾いた喉に与えられた甘露を越えるものなど存在しない。もはやママはくちなわ以外の血を受け付けない。受け付ける気もない。
「だから、余計に不老不死なんかに興味を示す連中は鬱陶しいのよ」
ママは一瞬目を瞑って、それからクロに「昼食の準備ふたり分お願い」と指示をした。
ダーティベアとキャットの気配を感じ取ったのだ。
「あの子たちにも、何事もなければいいけど。きっとそうもいかないんでしょうね……」
憂いのため息を吐くママに、クロはなにも言わなかった。
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