小説
ある御伽噺
・ファンタジー
・王子→識者


 その国には識者と呼ばれる賢者がいる。
 魔法から薬学に到るまで造詣が深く、また政治にも明るい識者は王子の教師として城に招かれた。
 王子は初めて出会った識者を見て思う。

(わあ、なんてきれいなひとなんだろう)

 艶々した長い黒髪はゆったりと編まれ、白皙の美貌にはうっすらと重ねた歳月の十分の一程度の皺が刻まれているが、あまり表情が変わらぬ白痴美故かその皺すら最小限。識者の生きてきた年月を思えば、特に笑い皺もなく眉間に谷もないあたり、ほんとうに表情に乏しいことが伺える。
 識者は黒い服を纏っていた。それが余計に肌の白さを際立たせ、王子の目を惹いた。
 王子は識者ほど美しい人間を始めて見た。だから識者と引き合わせた王様が苦笑いしながら挨拶を促すまで、言葉さえ忘れてしまったのも仕方がない。

「王子、今日からお前の先生となるひとだ。挨拶を」
「あ、は、はいっ。初めまして、ぼくはこの国の第一王子で……」

 識者の指がゆっくり閃いて、王子の唇に静かに、というように触れた。
 王子は目を見開き、その指から伝わる温度の何倍もの熱を唇に感じて息を呑む。

「存じている」
「え……」
「そなたの名は、存じているよ」

 識者はゆったりと目を細めた。それが識者の笑みだと知るのはもう少し先のことだった。



「聞いてよ、識者! あの女ときたら眠り続ける隣国の王女を目覚めさせて娶れなんて言うんだよっ」

 王子は巨大な鳥かごを模した部屋を訪れるなり、そんなことを言って肩を怒らせた。王子の訪れにぼんやりした視線を送った識者は小さく「またか」と呟き、また視線を庭木へと送る。
 識者はこの鳥かごに閉じ込められている。識者の魔法を以ってすれば脱出も簡単だろうに、識者が虜囚のような身に甘んじているのは、それだけ識者が外の世界というものに興味がないからだ。識者は知り過ぎてしまった。識者の興味を揺るがすものはもう殆どない。だから、自らが育てた王子に鳥かごへ閉じ込められたときもなんの感慨もなくそれに従った。今では護衛騎士と王子だけが識者の世界の第三者だ。
 いつものように花を抱えて訪れた王子に護衛騎士は苦笑いして花を受け取り、それを花瓶に生けていく。手馴れた仕草が識者の鳥かご生活の長さを知らせている。

「殿下、また縁談ですか」

 護衛騎士が気安く話しかければ、王子は識者の向かいの椅子に腰掛けながらうなずいた。識者はぼんやりした視線のまま、王子を見やる。

「そうだよ、あの女ときたらまだ諦めないらしい」

「ぼくには識者がいるのに」と頬を膨らますという子供っぽい仕草をする王子の言うあの女とは、母親である王妃のことだ。
 王妃はことあるごとに王子に縁談を勧めるのだが、王子がそれに従ったことはない。

「こどもを残すのは王侯貴族の務めですよ、殿下」
「分かってるよ。いずれはぼくだって考える。でも、それは今でなくてもいい筈だ。ましてあの女が勧める縁談ときたら、どれも奇妙なものばかり。ぼくでなくても嫌になるよ。ねえ、識者?」

 相槌を求められても、識者の視線は虚空を漂うばかりだ。
 昔はもっとしゃっきりしていた識者だが、王子を育てるという役目が終わってからこうしてどこか浮世離れした人間になってしまった。いまも話を聞いてるかどうかすら怪しい。だが、王子は構わず口を開く。

「この前は塔に閉じ込められた姫君だったし、あの女が紹介する女はどうして誰も彼も難ありなんだろう」
「障害が結びつきを強くすると信じてらっしゃるんですよ。この時代、内部分裂なんて洒落になりませんから、殿下には絆のあるご結婚をして欲しいのでしょう」
「王侯貴族の結婚に絆もなにもあったもんじゃないよ。ぼくは利益が一致した政略結婚のほうがよっぽど信用できるね」
「まあまあ、そう仰らず。一度くらい人助けのつもりで姫君を迎えにいったらいかがです?」
「嫌だよ。難ありの姫君なんてどうせぼくでなくてもいいんだから、ぼく以外が助けにいって結ばれればいい」

 護衛騎士は苦笑する。

「即位したらてきとうに花嫁を見つけるさ。それまではねえ、識者。きみだけがいればいいよ」

 うっとりと識者に微笑みかけるが、識者の視線は虚空を漂ったまま、現に戻る気配はない。
 王子はそれでも構わなかった。
 王子にとって識者は初恋の君だ。それが一時でも自分のものであると錯覚できる時間は倒錯的でさえあったが、紛うことなく幸せだったのだ。
 識者がどう感じているかが分からないことだけは、王子も少し気にかかっているけれど、識者はなにも言わないので王子はそれに甘えることにしていた。

「それにしても、隣国の眠れる姫君って確か茨に守られているんじゃなかったでしたっけ?」
「そうだよ。国中が茨に包まれている。よっぽどでなければ助けるのも困難だ。気持ちの伴わないぼくじゃ早々に投げ出すのが見えてるね」
「……いばら」
「識者、喋った?」

 識者の小さな呟きを余さず拾い、王子はばっと顔を識者に向ける。識者はぼんやりと王子の顔を見やりながら、珍しいことに再び口を開く。

「むかし、刺すと眠りの呪いが発動する糸車を売ったことがある」
「糸車?」
「ついでに茨の蔓延るまじないもつけておいた……」

 王子と護衛騎士は顔を見合わせて「偶然ってあるもんだね」とうなずきあった。識者は言うだけ言うと疲れたのか、ふう、とため息を吐いて再び夢の境へと意識を飛ばしてしまった。
 王子と識者と護衛騎士の他愛ない日常のはなし。
 そんな日常が、鳥かご姫の噂と共に脅かされるのは、もう少し先の話である。

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