小説
10チャンス
始まりは多分、両親の喧嘩でささくれ立った心のまま蹴飛ばした空き缶だったと思う。
それが偶然不良の一人に当たって「やばい」と思うより早く殴られ、かっときて殴り返して……。翌日からはクラスメイトからの視線が変わっていた。いや「やっぱり」というどこか納得顔になっていた。
それからはずぶずぶと不良の道を進んでしまって、それに合わせて両親の喧嘩も激化して。
なにがどうしてこんなことになってしまったのかは簡単に弾き出されるけれど、なにをどうしてこうしたらいいのかは未だにさっぱりと分からない。
ふわりふわり、好い香りがした。
ここ暫くで嗅ぎ慣れたけれど飽きない香り。
敦美は鼻をすん、と鳴らして真っ暗な視界から逃れるようにぼんやり目蓋を開ける。
途端、じんじんと顎が痛んで敦美は呻いた。
「っうぁ」
「よう、起きたか」
顎に手をやったところで白の声が聞こえたので、敦美は涙目でそちらに視線をやった。見慣れた縁側で団扇を煽ぐ白が面白そうな顔をして敦美を見ている。
「……織部さん」
のっそり起き上がりながら言えば、白が「おはよう」となんてことのないように言う。
同時に好い香りが近づいてきて、敦美は顔を向ける。
「茉莉花茶……」
「それと百日紅な」
お盆ごと湯のみを枕元に置いた隼は「おはようさん」と声をかけて敦美の頭をくしゃり、と撫でて部屋を出て行った。
「あれ、そういえば俺気絶したんですよね?」
「ああ、そうだな」
「ここまで誰が……」
Hortensiaで寝かせられているならともかく、此処は白と隼の家だ。何度もきているのだから間違いない。
「さて、誰だと思う?」
白はゆったり団扇を揺らしながら首を傾げる。
「えっと、真辺さんですか?」
「残念、違う」
「え、じゃあ、織部さんが?」
「それも違う」
敦美は目をぱちくりさせた。
白は足が悪いらしい。ならば隼かと思ったがそれも違うという。
拓馬というのも店があるのでありえないだろう。
敦美は頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら湯飲みを手に取り、ふう、と表面に息を吹きかける。ちらり、と見遣ったガラスの急須の中ではまだ一杯分残った茉莉花と百日紅の工芸茶が優雅に揺れている。
「中西院だよ」
なんてことのないように白が答えを言うが、敦美は折角口に含んだ工芸茶を吹き出しそうになった。
「えっ、え、ええっ?」
「気絶なんて面倒なことさせた奴が責任とるの当然だろ」
「そ、それでなんで織部さんの家に?」
「誰もお前ん家知らなかったからな。
ノリノリでおんぶしてたぜ」
「体型対して変わらないのによくもまあ物好きがいたもんだ」と零しながら白は団扇を置いて、ぐーっと伸びをする。
内心で「えー」と唸りながら敦美は工芸茶を飲み干す。寝起きだからか喉が渇いていた。
「それ、飲んじまっていいぞ」
急須を指され、敦美はこくり、と頷いて湯のみに残りの工芸茶を注ぐ。先ほど飲んでいたものより濃い色合いの茶は少しだけ渋みが出てしまったが、その分香りも濃密で目覚めには丁度よかった。
ふと目覚めで思い出す。
いまは何時だろうか?
ぐるり、と部屋を見渡したが時計はなく、敦美は白に問いかけた。
「ああ、十時前だな」
Hortensiaに向かったのが八時ごろである。
それにしても十時前と聞いて、敦美はばっと外を見遣る。星々が煌き月も輝く空に顔が歪む。
「ああ、親御さんになら連絡しといたぜ」
「へっ?」
また両親が煩いと思った敦美は白の先回りしたような台詞に声を裏返す。
「お前中々起きないから携帯電話を失敬しました」
「ああ、でも連絡したのは中西院だ」と続ける白に、敦美は驚愕する。
自分を運んだり連絡を入れたりと何故葵がそこまでするのか、敦美はさっぱり分からない。今回仕合うことになった理由だって分からないのだ。
仕合う。
それで敦美ははっとする。
「お、織部さん……すみません」
「なにが」
「俺、負けちゃいました」
あんなに仕込まれたのに、無様にノックアウトなどと、それも白と隼の目の前で!
恥ずかしくて居た堪れなくて、敦美は湯のみを握り締めたままぐっと俯く。
怒っているだろうか、呆れているだろうか。
最初から強く断ればよかったのに、結局は流されてしまったのはどこかで慢心していたからかもしれない。二代目と三代目のbeloved総長に仕込まれている自分なら、と驕っていたのかもしれない。
そう小さくなる敦美に返ってきたのは白の「だから?」という短い応えだった。
「負ける確立の方がでかいのは最初から分かってて、それでも一発いれるってことだったろ。それを踏まえりゃお前はよくやったよ」
「あいつはしゃいでたぞ」
小ぶりのおにぎり二つを乗せた皿を持って戻ってきた隼は、それをまた枕元のお盆に置きながら言う。
「腹減ったろ」
「はい。いや、そうじゃなくて……はしゃいでたってbeloved総長ですか?」
「ああ」
「なんで?」
「お前をbelovedに入れるんだと」
落としそうになった湯のみは隼がそっと敦美の手から抜いて、お盆に戻してくれた。
「お前おぶって歩きながらうるせえ、うるせえ」
「『beloved前総長ふたりに仕込まれたメンバーなんて秘密兵器もいいとこじゃん。実際強いし、面白いし、絶対ぜったいbelovedに入れるんだー』だとさ」
葵の口真似をしながら聞かされた内容に敦美はぽかん、と口を開けるが、その口には隼が「みっともねえ」とおにぎりを突っ込んだ。むしゃむしゃ素直に食べる。
「belovedに入りゃ少しは身辺落ち着くんじゃねえの」
「俺らの頃より荒れてない分、下手に手ぇ出す馬鹿は確実に減るだろ」
「まあ、不良街道フェードアウト考えてたなら道は遠のいたがな」
正当防衛のみに徹してそのまま不良からフェードアウトというのは少しだけ考えていたが、それほどショックではない。
「ほ、ほんとうにbelovedに入れるんすか……?」
「『頷いてくれるまで勧誘かんゆー!』ってテンションだったな」
こくり、と白に頷かれ、敦美はそろそろぬるくなった工芸茶の入った湯のみを引っつかむと、ひと息に飲み干してお盆に戻す。
「あざっまーす!!」
早口で礼を言い、敦美はぐっと頭を下げた。
もとよりbelovedに憧れていた。けれど、敦美にはbelovedに入れるほどの実力はなかった。それを底上げしてくれたのは、勧誘されるほどまでに育ててくれたのは、紛れもなく白と隼だ。
「若者をひとり完全な不良にしちまうんだから礼を言われることじゃねえなあ」
白は薄っすら苦笑いして、隼は「ほら、おにぎり固くなるぞ」と残りのおにぎりを勧めた。
ふたりにとっては大したことではないのだろう。けれど、その大したことではないことが敦美にとってはとても嬉しいのだ。
ひとりぼっちで戦ってきた今までを思えば、ずっとずっと嬉しくて、勧められるまま齧りついたおにぎりが先ほどよりもしょっぱく感じてしまうほどなのだ。
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