小説
シャボン玉のこと



 公園についたらまず真っ先に目についたのはシャボン玉だった。
 ふよふよ、ふわふわ、揺れて浮かぶシャボン玉。その発生源はベンチに腰掛けるちい先生だ。

「こんにちは、ちい先生」
「やあ、米くん。こんにちは」

 俺が挨拶するとちい先生は加えていた緑色の筒を口から離し、にっこりと笑いながら挨拶を返してくれた。

「シャボン玉?」
「シャボン玉」

 ふうん、と頷きながら近くを漂うシャボン玉を突いた俺は驚く。
 割れないのだ。
 ぼよん、とした手ごたえが返ってくるばかりで、シャボン玉はそのまま飛んでいってしまう。

「ちい先生、なにこれ」
「シャボン玉だねえ」
「割れないんだけど!」

 ちい先生はくっくっと喉の奥で笑い、まだ吸うには早い煙草を咥えるような仕草で筒を揺らし、またシャボン玉を作る。出来上がって飛んだばかりのそれを俺はまた突くのだけど、やはりそれは割れなかった。

「ちい先生、これどういうこと」
「ううん? 市販のシャボン液じゃないからねえ」
「ええ、ちい先生シャボン液作ったの?」
「うん」

 なにをどうしたら割れないシャボン玉が出来上がるのだろうか。

「砂糖とグリセリンをいれるんだよ」
「へ、それだけ?」
「それだけだねえ」

 砂糖はもちろん、グリセリンなんて薬局で売っている。そんなお手軽なもので割れないシャボン玉なんてものができるのだろうか。いや、できているからいまちい先生はせっせとシャボン玉を作っているのだろうけど。

「米くん、大きいの作るかい」

 言いながら渡されたのは針金で作った網のないラケットのようなもの。大きなシャボン玉を作るのに見かけるあれだ。ちい先生は準備がよく、それ様の器も用意していて、そこにシャボン液を流し込んだ。俺はどきどきしながらシャボン液に針金を浸し、膜ができたのを確認してからゆっくりと針金を振るう。
 震えるように大きくなっていくシャボン玉。
 俺は思いきって強く振れば、ぼよん、とした感触とともに大きなシャボン玉が宙に浮かんだ。

「うわあ!」
「いいねえ」
「ちい先生、もう一回、もう一回!」
「はいはい、いくらでもどうぞ」

 俺ははしゃぎながら針金をシャボン液に浸し、今度は走り出す。ぐんぐん伸びていくシャボン玉は途中で玉になりぶよんぶよんと浮かぶ。突いてもそれは割れなくて、俺はなんだか感激してしまう。

「ちい先生!」
「なんだい、米くん」
「これ楽しいね!」
「気に入ったならなによりだよ」

 ちい先生はうれしそうに笑いながら、緑色の筒の小さなシャボン玉をたくさん作った。
 ふよふよとちい先生の周りを漂うシャボン玉はどこか幻想的で、俺はまるで夢でも見ているんじゃないかしらと錯覚すらした。
 だって、こんなに楽しくて、愉快で、こんなこと早々ないでしょう。
 シャボン玉越しにちい先生を見れば、ちい先生の姿は歪んで見えて、ますます現実味がなくなる。

「ちい先生」
「なんだい、米くん」
「なんでシャボン玉作ろうと思ったの」

 そうだねえ、とちい先生は長い足を組み替えながら宙に視線を飛ばす。その姿は高校生には見えない貫禄があった。俺がちい先生くらいだった頃は兄貴にもまだ出会ってなくてもっと荒れた雰囲気だったと思う。でもちい先生にはそんな暴力的なところは一切なくて典雅だ。対照的な俺たちなのに、その付き合いはもう十年くらいになる。
 十年くらい経ってもちい先生はちい先生のまま、俺の先生だ。

「割れないシャボン玉の話をテレビで観てね、きっと米くんとやったら楽しいだろうなと思ったからかな」

 十年くらい経っても、少しも褪せることなく俺はちい先生の日常のなかにいる。
 ちい先生が大きくなったからふたりで出かけることも増えたし、先日は俺の住むアパートにちい先生が泊まったりもした。

「ちい先生、楽しい?」
「とても楽しいよ」

 米くんがいてくれてよかった。
 ちい先生は微笑み、緑色の筒をまた咥える。
 ふわふわ、ふよふよ、たくさんのシャボン玉が公園に漂っている。

「そういえば、食べられるシャボン玉なんてのが昔流行ったね」
「そうだっけ」
「うん、米くんは対象年齢よりずっと上だったから知らないかもしれないけど、流行ったんだよ」

 甘いんだけど、やっぱり少し苦くてね、とちい先生はおかしそうに笑う。

「そのシャボン玉が飛ぶとみんな一斉に鯉みたいに口をぱくぱくさせてね、おかしいったら」

 けらけら笑うちい先生は「このシャボン玉も砂糖が入ってるから少し甘いと思うよ。でも、それ以外も入ってるから食べるのはおすすめしない」と注意する。
 さすがに俺だって食べようとはしないよ。
 味が気になりはしたけど!
 俺の目が泳いだのにちい先生は目ざとく気づき、くつくつと肩を揺らす。

「ちい先生も食べたの?」
「うん、食べたよ」

 シャボン玉を追いかけてぴょこぴょこ跳ねるちい先生。昔と言っていたので出会ったときくらいのちい先生で想像してみる。
 かわいいじゃない。
 いま煙草を吹かすようにシャボン玉を吹くちい先生は格好いいけど、あの頃のちい先生は思い出せば思い出すほどかわいらしい。

「あーあ、アルバムでも作っておけばよかった」
「なんの話だい?」
「ちい先生の昔をとっておきたかって話」
「僕も時々米くんの昔を思い出しては同じことを思うよ」

 おそろいだね、と言うちい先生に頷き、俺はまた大きなシャボン玉を作るのに走りだす。
 小さなシャボン玉と大きなシャボン玉。
 溢れ変えるそれらはやはり現実を夢のように色とりどりに飾った。

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