小説
熊の敗走



 ダーティベアは走っていた。
 その表情は珍しく焦燥を浮かべていて、現状が好くないものだと告げている。
 それはそうだろう。
 今日の依頼はどこで聞きつけたのかくちなわが警備を担当しているのだ。それだけでも依頼をなかったことにしたいというのに、先日まんまと取り逃がしたせいか警備はさらに厳しくなっていて、ネズミ一匹逃がさない構えだった。
 幸いだったのは標的があちこちに恨みを買っているせいでダーティベアに味方する連中が屋敷のなかにもいたことだろうか。
 しかし、どうにか潜入したものの簡単に標的へ近づくことはできず、ダーティベアはいつバレるとも知れぬ緊張感に身を浸すこと数時間。見張り交代する一瞬の隙をつき、標的を射殺しようとするが寸でのところで飛び掛ってきた蛇に逃亡を余儀なくされた。

(くそっ、今回は失敗かよ!)

 払い戻さなくてはならない金を思って舌打ちしながら、ダーティベアは走り続ける。背後には大勢の警察が迫っている。
 お縄頂戴など冗談ではない。ダーティベアは頭に叩き込んだ屋敷の見取り図を必死に巡らせながら屋敷の外へ出る。しかし、屋敷の外はぐるりと警察が取り囲んでいるはずだ。
 だが、ダーティベアとて考えなしに外へ出たわけではない。
 警察のなかには腐った人間がいる。その内の一人が警備の輪の一角を担っていて、ダーティベアはそちらへ紛れる手はずになっている。ダーティベアが潜入のために着ている警察の制服もその人物がよこしてくれたものだ。

「今日という今日は逃がしませんよ」

 不意に聞こえた声にダーティベアは反射的に横へ飛び退いた。
 いつの間にかダーティベアが通るはずだった門の前にはくちなわが立っていた。

「くそがっ」

 ダーティベアが銃を構えるのとくちなわが飛び掛ってくるのは同時だった。ダーティベアは舌打ち一つでバックステップを踏む。零距離戦になればダーティベアはくちなわに敵わない。まさしくアナコンダのような腕で拘束、下手をすれば骨の何本かを持っていかれる。
 だが、後退ばかりはしていられない。今はまだ距離があるものの後ろには他の警察が迫っている。
 ダーティベアはくちなわに銃口を向けて発砲するが、くちなわは蛇のようにするするとした身のこなしで凶弾を回避する。しかし、なにを思ったかダーティベアが二発目を発砲する前にその場から飛び退いた。刹那、くちなわが立っていた場所に銃弾が抉りこむ。

(フォックス!)

 二発、三発とくちなわに向かって銃弾が放たれるたびにくちなわは門から遠ざかっていく。ダーティベアはその隙を逃さず一気に駆け抜けた。

「っ待ちなさい!」
「誰が待つかよ」

 舌でも出してやりたい衝動を堪えながらダーティベアは門を潜り不自然に警察の人数が少ない場所を通り抜けていく。途中、にやりと笑う警察官が制服とは違うスーツのジャケットを横切り様に渡してくるのを受け取り、ダーティベアは走りながら制服を脱ぎ捨てて着替えた。



「っしゃあ、俺も撤収しますか」

 十分屋敷から離れたところから狙撃銃を構えていたフォックスはダーティベアがくちなわのあぎとから抜け出たのを確認すると急ぎその場から立ち上がる。

「しかし、狙撃回避とかマジで化物かよ」

 ダーティベアが聞けば「お前の腕が悪い」と言いそうなことを呟きながら、狙撃銃をケースにしまう。
 フォックスとしてはくちなわが動けなくなりさえすればよかったので、ヘッドショットは避けたがそれにしてもくちなわの危機察知能力は異常だ。

「あいつ殺したほうが厄介だからな……」

 実はくちなわ暗殺の依頼は過去何回か入ってきたことがある。しかし、ダーティベアもフォックスもそれを毎回断り続けていた。
 と云うのも、くちなわの背後が凶悪過ぎるからだ。世界有数の富豪の長男であるくちなわは本人も厄介だが、手にかけた瞬間こそがこちらの命日だ。今は警察という一つの組織の歯車として相対しているが、今度は世界中を敵に回すことになる。くちなわの実家は法を利用し、ときに無視してダーティベアとフォックスを殺しにかかるだろう。

「坊ちゃんが警察なんぞやってるんじゃねえよ」

 悪態を吐くフォックスだが、くちなわが警察でいられる期間が限られていることは情報のみは信頼できる情報屋の蝙蝠から聞き出しているため、あと少しの辛抱とばかりにダーティベアとくちなわ暗殺を堪えている。堪えているといっても、くちなわがそう易々と暗殺されてくれないことは狙撃を回避したところから見ても確かなのだが。
 ため息混じりにその場を立ち去るフォックスは気付かない。小さな小さな目が闇の中金色に光り、シューと鳴いたのを。
 そして、一匹のコウモリが飛んでいたのを――



「先輩、無事ですか!」
「ダーティベアは取り逃がしましたけどね」
「いや、狙撃なんて想定外ですし……」

 駆けつけた部下に無事を告げて、くちなわは歩き出す。

「先輩?」
「前々から睨んでいましたが、今回でダーティベアに仲間がいることがはっきりしました」
「その場限りの協力者ではなく、ですか?」
「ええ、恐らく」
「それで、どこに行くんですか?」
「丁度狙撃方向に蛇を放っているんですよ。ダーティベアが逃げ込んだときの監視になるかと思いましたが、ひょっとしたら仲間……相棒を確認しているかもしれません。まあ、殺されていなければの話ですが」

 くちなわはニイィと哂い、凶弾が飛んできた方向へと視線を向ける。

「巣の次は仲間、それに素顔……ふふ、少しずつですが確実に奴に手が届いていますよ」
「先輩はなんでダーティベアにそこまで固執しているんですか? 他の犯罪者のなかでもとりわけですよね?」

 部下の言葉にくちなわは一気に冷めた顔になると、僅かに視線を逸らす。

「以前、招待されたパーティーに奴がいまして、目の前で仕事されたんですよ」

 いま思い出しても腸が煮えくり返る屈辱だ、とくちなわは吐き捨てる。
 冷気さえ纏っていそうなくちなわの雰囲気に部下はそれ以上深くは聞けず「そ、そうですか……」とありきたりな相槌を打ち、その話はここで終わった。

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