小説
特別のこと



「以前、かちかち山で話したと思うけど、改変された話についてまた話そうか」

 そう言ってちい先生が切り出したのは美女と野獣の話。
 先生曰く、原典であるフランスの民話には野獣を野獣にした魔女など出てこないのだという。
 出だしは三人娘の父親が野獣の庭から薔薇を、といったところから始まるらしい。

「今では魔女に野獣にされた美男子が、となっているが、僕はこの話に呆れてしまうんだ」
「どうして?」
「だって、この改変された話に出てくる魔女、あまりにも身分制度について無知じゃないか」

 一晩の宿を断るのが傲慢? 身分在るものが早々身元の知れない輩を懐にいれられるわけがないじゃない。
 ふん、とちい先生は皮肉に鼻を鳴らす。

「そんなに傲慢な人間が気に食わないならいばら姫に出てくる魔女にこそ呪いをかけるがいいよ」

 招待されることが当然だと、それをしないのは不遜だと罪なきお姫様に呪いをかけた魔女。

「善い魔女がいばらで国を包まなければどうなっていたか」
「え、いばらって善い魔女が出したの?」
「僕はそう考えているよ。国中を包むいばらなんて早々蔓延らないし、そうでもしなければ国はあっという間に他国から侵略されてしまうじゃない。傲慢な魔女がそんなところで親切心を出すとは思えないね」

 なるほど、と俺は納得して頷く。
 それにしても美女と野獣、状況としては俺とちい先生にも当てはまるのかもしれない。
 ヤクザの下っ端と将来有望なちい先生。ただ、ちい先生は一度だって俺から逃げたことなんてないのだけど。
 きれいなきれいな目で俺を見つめてくれるのだけど。

「ちい先生だったら野獣に求婚されたらどうするの」
「ええ? そうだねえ……」

 ちい先生は唇をつい、と撫でながら考える。その横顔はまろい頬がなければとてもこどもには見えない。
 でも、ちい先生はこどもだ。
 こどもらしくないからといって、こどもから「こども」を取り上げていいなんて道理はない。
 どんなに頭がいいちい先生だって、いつかはいばらに立ち向かうように苦難や困難に見舞われることだろう。そのとき、俺はどれだけちい先生を助けられるだろう。俺は大人だから、ちい先生より頭が悪くたって大人だから、せめていばらを掻き分けるくらいはしたい。ちい先生が通れるくらいの穴をいばらに空けるくらいはしたい。
 たとえばそれで俺の手が棘だらけになっても。

「そうだね、僕が野獣に求婚されたらまずはお友達から始めてみるよ。父親の解放云々は自業自得だからこの際横に置いてね」

 考え終えたちい先生はこざっぱりした様子で言う。
 お友達から始める。妥当だ。ちい先生なら野獣の見た目に怯えることもなく提案するんじゃないかしら。
 ああ、やっぱり俺なんてちい先生に必要ないのかもしれない。ちい先生はいばらだって自分で伐採して進みそうだ。俺が掻き分けるなんて要領の悪い選択肢は選ばないだろう。

「それで、米くんのことも紹介しようか」
「へ、俺?」
「だって野獣は孤独が嫌いなんだろう。だから父親のことだって最初は歓待したし、娘を希みもしたんじゃない? だったら一人より二人、二人より三人がいいよ」

 なにもたった一人に執着することはない。

「だって、世界はこんなにも広いのだから」

 俺はぼうっとして晴れやかに笑うちい先生を見る。

「でも、空の青さを知った上で誰かを選ぶのは素敵なことだと思うよ。誰も知らずに一人を選ぶのは寂しいことだけど、誰かの中から一人を選んだのならそれは特別ということでしょう」

 特別。
 なんて素敵な響きなんだろう。
 誰からもいらないとされた俺には眩しいくらいだ。
 少しだけ泣きそうになってしまった俺に、ちい先生は困ったような顔をする。ひたり、と頬にあてられた小さな手に零れた涙が伝った。

「米くんは自己肯定が苦手だね」

 僕はこんなに米くんが好きなのに、半分も伝わっているか分からないじゃない。
 頭のいいちい先生は俺の考えだってお見通しらしい。
 ちい先生はベンチにひざ立ちになると、俺の頭を抱えるように抱きしめた。小さな身体でいっぱいに抱きしめられて、俺はその温かさにますます泣けてくる。

「大好きだよ、米くん。だから一人でいようとなんてしないでよ。僕のことも仲間にいれてよ」
「仲間に入ってくれるの。ちい先生は俺の仲間でいてくれるの」
「もちろん」

 心臓の音が聞こえそうなほどぎゅう、と抱きしめられる。

「だって、米くんは僕の特別なお友達だもの」

 瞬間、脳裏を過ぎったのはゴミのように部屋の隅で丸まっていた自分。母親から罵声を浴びせられた日々。
 誰も見ないふり、聞こえないふりをして、俺のことを放っておいた。
 誰も俺のことなんて必要なかった。
 それでもいいの、ちい先生。
 誰も欲しがらない俺が特別でいいの、ちい先生。

「ねえ、ちい先生」
「うん?」
「もしも俺がいばらのなかに閉じ込められていたら、ちい先生は会いにきてくれるの」

 ちい先生は抱きしめていた俺の頭を離すと、涙でぐちゃぐちゃの両頬を小さな手で包んだ。

「チェーンソー持って連れ出しに行くよ」

 力強い言葉に俺は大きく笑って、それから声を上げて泣いた。
 わんわん泣く俺のことを、ちい先生はいつまでもなで続けてくれた。

 眩しさに思わず目を瞑ってしまいそうになるほど晴れた日のことだった。

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あきゅろす。
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