小説
手当てのこと
借金の取り立て先で俺は額を軽く怪我した。額というのはどういうわけだか血が多く出て、怪我の状態よりも酷く見せてしまう。
俺としてはこれくらいどうってことないんだけど、俺の瘡蓋になった額を見たちい先生はそう思わなかったらしく、挨拶より早く公園の水道に駆け寄ってハンカチを濡らしたものを俺のよこした。
「なんで手当てをしないの!」
「血はもう止まってるよ」
「瘡蓋ってのはない方がいいんだよっ」
「まったく悪い米くんだ!」と憤慨しながら、でもどこか泣きそうな顔でちい先生は俺の額にハンカチをあてる。
「ちい先生、ハンカチ汚れちゃう」
「ハンカチは米くんの手当てに使われるなら喜ぶよっ」
「でも……」
ちい先生の持っているものはさり気なく洒落ている。ちらっと見ただけだけど、このハンカチは確か以前見たのと同じで椿の花が刺繍されていたはずだ。なにかの折に「職人さんの手刺繍なんだよ」と言っていた気がする。
やっぱり俺は居た堪れなくてやんわりちい先生の手を押しやるのだけど、ちい先生に真正面からきっと睨まれて固まってしまう。
「いいかい、僕はこれからひとっ走りドラッグストアへ行って来るけど、米くんはこのハンカチを外しちゃいけないよ。戻ってきたときに外していたら僕は怒るからね」
「……いやいや、大げさ……」
「怒るからね」
「なんでもないです」
俺はいつにないちい先生の気迫に押され、ついでにハンカチも軽く押されて呻く。その間にちい先生はだっと公園から走り去ってしまった。
小さい身体はすばしっこく、あっという間に公園を離れていく。その後姿を見送りながら、俺は一瞬だけハンカチを外す。ハンカチにはやはり見覚えのある刺繍がされている。
「血の染みは落ちないのに……」
落ちたとしても血のついたハンカチは洗っただけでは気持ち悪いだろう。これは新しいものを探して渡さなければ。
けれども俺は職人さんの手刺繍クラスのものが売っている店など知らない。これは兄貴に教えてもらうしかないだろう。
「これくらいの怪我で手当てしてもらったって言ったら呆れられるかな……」
ヤクザならばこの程度、ほんとうにどうってことはないのだ。上の人に難癖つけられて殴られるほうがよっぽどの重傷だ。
でも、うれしくないわけじゃない。
だって、ちい先生ってばあんなに青ざめて。あんなに血相変えて。あんなに心配してくれた。
それがうれしくないはずがない。
俺は唸りながらまたハンカチを額にあてる。ひんやりしたハンカチは気持ちがいい。
ほどなく戻ってきたちい先生は、赤い軟膏とガーゼ、それにテープを買ってきてくれた。お金は最初受け取ろうとしなかったけど、今度は俺が「怒るよ」といえば苦笑いしながら受け取ってくれた。こればかりは譲れない。小学生に治療代払わせるヤクザがどこにいるというのか。俺はそこまで落ちぶれちゃいないつもりだ。
ちい先生は妙に小慣れた様子で俺の傷口に膏薬を塗ると、ガーゼをビーっと裂いて折りたたみ、テープで傷口に止めた。鏡があれば大層重傷に見える俺が写っているかもしれない。
「米くんは髪が短いから隠せないのも仕方ないよ」
「嫌なら今後は怪我などしないことだね」とちい先生はむくれながら言って、てきぱきと治療道具を袋にしまって俺に寄越す。俺は用なしになったハンカチを持つのとは反対の手で袋を受け取って、改めてお礼を言う。
「……こういうお礼はあんまり聞きたいもんじゃないね。もう怪我なんてしないでおくれよ。僕の心臓が止まってしまう」
「約束はできないよ。だって、俺は……」
ヤクザだもん。
音にしない言葉を拾ってちい先生はため息を吐く。
ため息吐かれたってどうしようもないことがあるんだ。俺はヤクザ以外で生きていけやしないし、今更真っ当な道を目指せやしない。諦めているわけじゃない。俺は兄貴に拾われた日からヤクザとしてやっていくと決めたんだ。それがちい先生にとって悲しいことでも。
「……やめろなんて言いやしないよ。ヤクザな部分も含めて米くんだもの。でも僕は米くんが怪我をしたら哀しいし、痛いのは嫌だよ」
それをどうか忘れないで。
ガーゼの上をそっと撫でて希うちい先生に、俺は重々しく頷く。
心配してくれるひとがいること。これを忘れたら俺はきっともっとヤクザらしくなれるんだろう。でも、忘れたらちい先生といられやしないのだ。大事な、とっても大事な部分。俺はそれを大切にしながらヤクザをやっていく。
「ちい先生、あのね」
「うん」
「ハンカチ、俺新しいの探すから」
「気にしなくていいのに」
「血で汚れたハンカチなんてご両親が心配するよ」
それに、改めてハンカチを見下ろせばなんて綺麗な刺繍。これを駄目にしてしまったまま何事もなく過ごすなんて俺にはできない。
「お店の名前分かる?」
「……ひぐらし」
「ひぐらしだね。うん、分かった」
渋々教えてくれたちい先生に何度もお礼を言って、後日俺は兄貴も何か知ってないかと店の名前を告げれば驚いた顔をされた。
「お前、いつの間にひぐらしのこと知ったんだ」
「有名なんですか?」
「日本刺繍の世界じゃ知らない奴ぁいねえよ」
「……兄貴、俺そこのハンカチが欲しいんです」
「それはそのガーゼと関係あるのか?」
俺がこのくらいの怪我じゃろくな手当てをしないことを、兄貴はようく知っている。だから俺は素直に経緯を話したのだけど、そうしたら兄貴は「いい『先生』を持ったな」と笑ってくれた。
「だが、さすがに人気あるから予約待ちかもしれねえなあ」
「どのくらいですか?」
「日本刺繍ってのはえらく時間がかかるもんだ。数ヶ月とまではいかねえが、二、三ヶ月は覚悟したほうがいいんじゃねえか?」
ショックを受ける俺に兄貴は苦笑いして教えてくれた。
「余計に時間がかかるのは柄やなんかを指定するからだ。まったく違うものでよけりゃ店頭で手に入るかもな」
俺が犬なら尻尾を振っていただろう。
ほんとうなら全く同じものがいいんだろうけど、きっとちい先生は俺が選んだものを喜んでくれる。
俺を心配してくれるあのひとは、とても心がやさしいひとだから。
それから二週間後、俺はどうにかこうにかハンカチを手に入れてちい先生に渡すことができた。
「おや、鉄線だ」
「テッセン?」
「この花の名前だよ。ふふ! 米くん、あのね。この花は相手との繋がりを結ぶ意味があるんだよ。つまり縁結びだね」
とってもいいものを貰っちゃった、とはしゃぐちい先生に、俺は意図せぬ柄のチョイスをした自分に顔を赤くさせた。
そういう意味じゃないんだけど、否定もし辛い!
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