小説
79ラウンド



 エンジン音がしていた。
 廃ビルで聞くには不似合いな音だ。
 気配を探れば相手は一人、ならば自分は気配を殺して通り抜けようと思ったが鼻を掠めたのは甘い匂い。先ほど遣り合った相手が投げつけてきた瓶に入っていたのはアロマオイルだったらしく、白に匂いが移っていた。これでは気配を殺しても意味がない。

(くそが、どこでもマーキングしやがって)

 恐らく指示されての行動だ。相手は白の能力をよくよく理解しているらしい。鬱陶しい、面倒くさいことこの上ない。熱のせいか思考が単純化されている。
 白は気配に向かって駆けだす。どうせぶつかるしかないのならば早いほうがいい。

(エンジン音……チェーンソー?)

 予想は当たっていた。
 雲が晴れて月明かり差し込む廊下、白以上に無表情な男がチェーンソーを両手に構えて立っていた。

(リーチはこっちが若干余裕あり)

 しかしチェーンソーの威力を考えれば切り結ぶなどできようはずもない。最悪刃が滑って白の手が文字通り落ちる。

(ヒットアンドアウェイ? チェーンソー持ってる奴の懐なんざ飛び込みたい馬鹿がいるかよ)

 走りながら白きり、と唇を噛み、鉄パイプの間合いぎりぎりでスライディングする。人間は上下の動きを認識し辛い。
 素早く男の視界外へと回りこんだ白はそのまま男の足を鉄パイプで払う。だが、それは咄嗟のステップでぎりぎりかわされてしまう。白は跳ね起き男から距離をとった。

「くそみたいに物騒なもん持ってきやがって……ジェイソン気取りですかっつーの、だったらこっちにゃ鉈よこせっつーの」

 なぜかチェーンソーを持っているイメージが先行しているジェイソンだが、実際にチェーンソーを使ったことは一度もない。

「刃物を振り回すことに抵抗がないとは、日本の安全神話も崩壊したものだな」

 踏み込んだ男がチェーンソーを振りかざすのを避けて、白は鉄パイプを薙ぐがまたしてもかわされたので切っ先と持ち手を反転させて突き出す。今度は男の横腹に当たり男はうめき声を上げる。

「平和ボケした日本人の少年に向かってチェーンソー振りかざす奴がいるんだからそれくらい仕方ねえだろうがよ」
「平和ボケした日本人の少年はそう巧みに鉄パイプを振り回さないものだ」
「ああ、振り回すのは鉄パイプだけじゃねえよ」

 白は鉄パイプを男に向かって投擲する。男はそれをチェーンソーで振り落とすが、次いで視界を覆った白色と厭な音をたてて停まったチェーンソーに狼狽する。
 その隙を逃す白ではなく、今度は躊躇なく男の腹に渾身の中段蹴りをお見舞いした。吹っ飛ぶ男の手から白の着ていたコートが絡まったチェーンソーが離れ、とどめに白はニードロップを男に食らわせる。

「ぐげっ!」
「カシミヤ三十パーセント、ウール七十パーセントは暖かいだけじゃねえ……くそっ、これもお気に入りだったのに」

 盛大な舌打ちをして白は廊下を走りぬけ、恐らく隼が、隼たちがいるであろう上階を目指して階段を駆け抜ける。



「……えげつないね」
「百九十を越える男が躊躇なくニードロップですか。内臓破裂してもおかしくありませんよ」
「ダブルニードロップやランニングニードロップじゃないだけマシか」

 映像を観ていた深緋と劉はドン引きしていた。チェーンソーの装備を指示したことを棚に上げて、白の容赦なさにそれはもうドン引きしていた。
 隼はそんなふたりのことを視界にいれず、ただ無事な白の姿に安堵する。

(そうだよな、いくらチェーンソーだからって総長が一対一で負けるわけがない)

 自身の不安が杞憂で済んだことがただ喜ばしく、隼の目に涙が浮かぶ。しかし、その涙も深緋の言葉で乾くことになる。

「次は火でしたっけ」
「つ、ぎ……?」
「あれで終わりなわけないでしょう?」
「ネタバレだったか、それするなら更にその次もあるよ。それもクリアしたらわたくしが出る」
「なに、なにをするつもりだよ……これ以上なにするっていうんだ!!」

 深緋はきょとん、とした顔で首を傾げる。

「気に入りませんか?」
「気に入るわけないだろうっ?」
「貴方が好きだったバラエティ番組を真似てみたのですが、そうですか……ちょっと刺激が足りませんでしたね」

 深緋は携帯電話を取り出すとどこかへ連絡する。

「もしもし、グレーテルですか?」
「きゃはは、そうだよ、グレーテルだよ!」

 聞こえて来たのは甲高い女の声。耳に痛かったのか深緋は若干耳から携帯電話を離して通話を続ける。

「ミディアムの予定でしたがウェルダンでお願いします」
「きゃははははは! 了解、了解なんだよ。ちんけな火しかないけどこんがり焼いちゃうんだよ!!」

 不穏すぎる言葉を響かせて通話は切られた。

「彼女は火遊びが大好きなんですよ。それが高じて祖母をかまどにぶち込んでしまったことがありまして、以来グレーテルと呼ばれるようになりました」
「…………お前は本気であのひと殺すつもりか」
「死ぬならそれまでとは思っておりますよ」
「弱肉強食いうだろ。それに知能加わると遊びでやるようになるよ。イルカなんかがいい例ね」

 ひとの命はそんなにも軽く扱われるものだっただろうか。
 隼はタイラップを引き千切らんとするが、こんな細いものなのにまったくそれが叶わない。

「隼、いくらタオル越しとはいえ手を傷めますよ」

 やんわりと深緋が咎めるが、隼はいまできる精一杯とばかりに両腕をぐいぐい捻り続けた。

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あきゅろす。
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