小説
夢のこと



 たとえば夕方、空が杏色に染まって、ぶどう色が混じって、雲がきらきらと光っているのを見たとき。
 たとえば昼下がり、風のなかにしゃんしゃんと鈴に似た音色を聞いた気がして耳を澄ませたとき。
 たとえば朝早く、誰もが寝静まっている頃に街が蒼と黒でくっきりと境界線を作り上げる中を歩いたとき。
 俺はちい先生を思いだす。
 ねえ、ちい先生。
 明日はいい天気になりそうだよ。
 ねえ、ちい先生。
 風が気持ちいいね。
 ねえ、ちい先生。
 いま、どんな夢を見ているの。
 俺はね、明日晴れていたら早起きをして万年床の布団を干してしまおうと思う。
 俺はね、この風が過ぎ去ってしまったら大きく深呼吸をして煙草に慣れた肺を一掃してしまおうと思う。
 俺はね、きっとちい先生の夢を見るよ。

「やあ、米くん。こんにちは」

 突然後ろから現れたちい先生に、俺は驚かない。

「こんにちは、ちい先生」
「今日はいい天気だね」
「そうだね、きっと明日はもっといい天気だよ」
「それは素敵なことを聞いた。でも雨の日も嫌いじゃないよ」
「そっか。俺も嫌いじゃないよ」

 いつの間にか降り出した雨。
 ちい先生は青空のような傘をくるり、と回し、精一杯腕を伸ばして俺にもさしかける。
 ぱらぱら雨粒が当たる音に反して、傘の外はしとしと静かに雨が降っている。音がしているのに音が消えてしまったみたいな世界のなか、ちい先生がいつものように小さくわらう。

「どうしたの、米くん」
「なにが?」
「まるで夢でも見ているような顔をしているよ」

 夢。
 夢を見ている。
 ああ、俺は自覚する。
 これは夢だ。
 突然現れたちい先生は俺の願望だ。

「あのね、ちい先生」
「なんだい、米くん」
「これは夢なんだ」
「夢。米くんはいま眠っているの」
「そう」

 ふうん、とちい先生は不思議そうに首を傾げてから傘をくるり、と回す。ぱしゃり、雨粒が振り落とされて足元へと散った。

「米くんはどんな寝顔をしているんだろうね」
「寝顔?」
「だって、これは夢なんでしょう。もし悪夢だったら米くんは顰め面をしているはずじゃない。もしいい夢だったら笑ってるかもしれない」
「そうだね」
「米くんにとって僕が出てくる夢はどちらだろうね」

 俺はなんだそんなこと、と思ってちい先生の頭に手を伸ばす。出会った当初よりずっとなれた仕草で梳いたちい先生の髪は相変わらず、夢のなかでもほやほやしている。

「いい夢だよ」
「そう?」
「大事な夢だよ」
「そう」
「うん」
「そっかあ」

 ちい先生はうれしそうな顔をして、傘をふわりと投げ捨てる。傘は青い鳥になって空へと羽ばたいていく。それを目で追えば、雨はいつの間にか止んでいて空には虹が架かっていた。

「虹には雌雄が在るのを知っているかい」
「いつだったかおすすめされた本に載っていたね。うん、覚えてるよ」
「ごらん、米くん。虹が二重に架かっている」

 見上げた空には確かに二重の虹。くっきりした一つと、淡いもう一つ。まるで夢うつつの境のようだ。
 ああ、夢ならいつか覚めてしまう。
 俺はこくり、と喉を鳴らしながらちい先生と視線を合わせてしゃがみこむ。

「あのね、ちい先生」
「なんだい、米くん」
「俺は目が覚めたら酷いことをしに行くんだ」
「山で穴を掘るんだろう」
「……きっと今だけ現実の俺はしかめっ面をしているだろうな」

 夢だから、それともちい先生だからか全部お見通し。そう、俺は目が覚めたら山へ穴を掘りに行く。墓穴というやつを掘りに行く。誰の? 誰かの。もう自己紹介なんてできない誰かの。

「じゃあ、早起きしなくちゃね」
「うん」
「じゃあ、もう目を覚まさなくちゃね」
「……うん」

 空はいつの間にか虹が消えて暗い夜空へと変わっている。もうすぐ群青に蒼が混じり始めるに違いない。ああ、早く起きなくちゃ。

「ちい先生、俺はちい先生ともっと早く出会ってたらヤクザの下っ端になってなかったのかなあ」
「それはシュレディンガーの猫に似ているね。なっていたかもしれない、なっていなかったかもしれない。僕という一つの要素で米くんの人生にどれほど影響があるのか、僕には分からないけど」
「けど?」
「待ってるよ」

 待ってる。
 ちい先生の姿がうすぼんやりと透けてしまう。
 待って、ちい先生。
 何処で待っているっていうのさ。

「いつもの公園に決まっているじゃない。いつも通り、僕は米くんを待っているよ」

 音にならない声を聞いてすっかり透けてしまったちい先生はくすくす笑う。
 いつも通り。
 目が覚めた俺がまずするのはいつもと違うことなのに、ひょっとしたらいつも通りがぐちゃぐちゃになってしまうようなことなのに、それでもちい先生はいつも通りでいてくれるの。
 いつもの公園で、いつものように。

「じゃあ、米くん。またね」

 また公園でね。
 それを最後にちい先生は消えて、俺の夢も終わった。



「ねえ、ちい先生」
「なんだい、米くん」
「ちい先生は今日見た夢を覚えている?」
「覚えているよ。青空を鮪が泳いでいる夢だった」

 昼下がりの公園で、俺はちい先生と隣り合ってベンチに座る。
 ちい先生が見た夢は中々シュールで、これこそ夢の醍醐味というようなやつだ。

「米くん、米くんはどんな夢を見たんだい?」

 対して俺の見た夢は……。

「真夜中の空を深海魚が泳いでる夢だったよ」
「ふうん。鮪と深海魚はどこを目指しているんだろうね」

 俺は密やかに笑う。

「きっと、虹を目指しているんだよ」

 とっておきの秘密にちい先生は目を丸くしてから、それは素敵だね、といつも通り小さくわらった。
 空に虹はなく、代わりに雨もない。
 いつも通り、いつも通りの昼下がりのことだった。

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