小説
ちい先生のこと
・一周年企画においてあるものと同じです



 ちい先生と出会ったのは、秋晴れの空が清々しい午後のことだった。
 雨に打たれて風に煽られて幾年の、くたびれたベンチにちい先生は座っていた。

「こんにちは」

 当時の俺は髪を染めて、片方の耳に三つ、もう片方に四つ、舌なんかにもピアスを空けていたりして、服装はチャラチャラ、目つきも粗暴な奴特有の厭なものだったのだが、ファーストフードの紙袋片手にベンチへふらりと寄って小さなこどもの姿に立ち尽くした俺に、ちい先生は臆することなく微笑みながら挨拶をした。たった一言の挨拶が、何故か語りかけるようだったのが印象深かい。

「となりへ座るかい?」
「いや……よそ、行くし」
「なぜ? ほら、よいしょ」

 ベンチの真ん中へ座っていたちい先生は、ちょこん、と横へ移動して、俺のためのスペースを作ってくれた。

「……お邪魔します」
「どうぞ、ごゆっくり」

 ちい先生の隣へ座った俺はがさがさと紙袋を開けて、取り出した温かいハンバーガーに齧り付く。べたべたと濃いソースと、油っぽい味が、当時はとても美味いと思っていた。
 むしゃむしゃとハンバーガーを齧りながら横目で覗ったちい先生は、妙に穏やかな顔で公園を眺めていた。
 危険だ危険だと使う側の責任を棚上げして騒いだ世間により撤去された遊具の跡が、ただただ寂しい公園だった。残されたのはブランコと鉄棒と砂場。昔はシーソーや箱ブランコもあったような気がするが、よく覚えていない。

「おにいさん」
「んあっ?」

 話しかけられるとは思わなくて、俺は変な声を出した。
 びっくりしながら隣を見れば、小さく唇を笑ませるちい先生がじっと見上げていて、少しだけたじろぐ。

「あそこに雲梯があったのは知っているかい?」

 小さな指が差すのは、不自然に剥げた地面を露出させている空間。言われてみれば、そんなものもあったかもしれない。しかし、よく覚えていない。今も、俺は雲梯の形を思い出せていない。

「さあ? そんなのもあったかな」
「あったんだよ。みんなが忘れたとしても、誰も覚えていなくても、あったんだ」
「……そっか」

 ならば、あったんだろう。ありはしないけど、あったんだろう。当時の俺は、すんなりと納得した。ちい先生の言葉は、あのときからずっと沁みこむ様な語り方のまま変わらない。

「僕はね、雲梯が得意だった」
「得意だったの?」
「得意だったね」
「じゃあ、なくなって淋しいね」
「そうでもない」

 ちい先生は膝をぽん、と小さな手でたたく。

「得意だったけど、好きなわけではないんだ」
「そうなの?」
「手が痛くなるから、実は少しだけ嫌いだった」
「じゃあ、なにが好き?」

 ちい先生は少しだけ照れながら、今度はブランコを指差した。

「ブランコ?」
「うん。でも、僕はブランコが得意ではない。立ち漕ぎができなくてね、でも、座り漕ぎじゃあんまり高く漕げなくて……くやしいね。くやしいなあ」

 何故か、このときの俺はちい先生を喜ばせたくなった。
 粗暴で、乱暴で、生まれる前から壊れてた家族なんてものを振り払って、ヤクザのパシリをやっていた俺が、どうしてだか会って数分のこどもをよろこばせてやりたくなったのだ。

「俺が押そうか?」
「……いいのかい?」
「うん、いいよ」

 俺は急いで食べ終えたハンバーガーの包みを紙袋ごとくしゃくしゃにして、ベンチに置きながら立ち上がる。

「ゴミは捨てなきゃダメだよ」
「あ、ごめんなさい」

 置いたゴミを近くのゴミ箱へ放り投げれば、うまいことすっぽりと収まった。

「えらいね」
「へ?」
「ちゃんとごめんなさいと言えるのは、いい子なんだ」
「……いい子なんて、初めて言われた」
「そう?」

 ちい先生は首を左右にゆらゆら揺らして、ぴょん、とベンチから飛び降りた。立って向き合うと、ちい先生はほんとうに小さくて、自分もこのくらいのときがあったのだろうかと思えば、不思議なほどだった。

「じゃあ、よろしくお願いします」
「うん」

 ちい先生はちい先生くらいの子がするように、目当ての遊具へ駆け出すこともなく、ほてほてと俺の隣を歩いた。
 ブランコの柵をちい先生はくぐって、俺は跨ぐ。
「よいしょ」と掛け声ひとつ、ちい先生が乗ったブランコはきい、と音をたてる。

「いい?」
「うん、いいよ」

 少し足を揺らして漕いだちい先生が頷くので、俺はブランコを少し押す。戻ってきたら、また押す。
 少しずつ、すこしずつちい先生を乗せたブランコは高くなっていく。

「ああ、空が高い」
「たのしい?」
「うん。素敵だよ」

 随分とブランコが高くなった頃、俺は押すのをやめてブランコの横に立つ。行って、戻るとき、すれ違うちい先生は俺に笑いかけた。俺はその顔がすごく嬉しかったのを覚えている。
 やがて、ブランコはゆっくりとふり幅を狭めていく。
 ちい先生の靴が地面を擦って、ざりざりと音をたてながらブランコは止まった。

「たのしかった?」
「とっても、たのしかったよ」

 ぴょこん、とまた跳ねるようにブランコから降りて、ちい先生は俺を見上げる。

「ありがとう」

 しみじみとした声で聴いたお礼の言葉。感謝の気持ち。とっても上等なそれが気恥ずかしくて、照れくさくて、俺は誤魔化したくなってしまった気持ちのままに、ちい先生の頭を撫でた。ほやほやと猫っ毛なのは小さい頃からだったね。
 ちい先生は頭を撫でる俺を不思議そうに見るものだから、俺は言ったんだ。

「ありがとうを言えるのは、いい子なんだよ」

 ちい先生を真似た俺に、ちい先生は「うふふ」と笑って、もう一度「ありがとう」と言ってくれた。
 荒れに荒れた俺にとって、それがどんなにうれしかっただろう。きっと、昔よりもさらに、うんと頭がよくなってしまった今のちい先生でも、きっと分からないかもしれない。
 ごめんなさいを言えて、ありがとうが言える。
 とても、大切なことを教えてくれた。
 その時から、ちい先生は「ちい先生」だ。

 そうして、俺は公園へ通うようになる。

「ねえ、米くん。感情による力まかせで殴らないように物を投げつけてくる親と、自分も痛みを感じるために自らの手で殴る親。きみはどちらがより愛情深いと思うかね」

 時々、とんでもなく突拍子もないことを話しだすちい先生に会いに、公園へ行くのだ。

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あきゅろす。
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