小説
一杯目



 すっかり気温が上がり始め、今年も猛暑が予想される頃、相変わらず静馬はぴたりと途絶えた客足に四季の訪れを予想していたのだが、からんころんとベルを鳴らしてやってきたのは予想外もいいところだった。
 丁度エプロンを逆に着ていたことに気付いて「誰か珍しいひとに会うんかね」と思いながら着替えていた静馬は唖然とする。

「加奈子……」
「久しぶり、静馬」

 化粧っけの少なさは相変わらずの彼女、言い方を変えれば静馬の元彼女はこつん、とヒールを鳴らして店の中に立った。



 静馬が加奈子と付き合っていたのは数年前のことで、なにか大きな喧嘩があったわけでもなく別れたのはやはり数年前だった。もう正確な年数など覚えていない。それほど記憶の引き出し深くに沈んでいた人物の訪れに静馬は少しばかり居心地の悪さを感じる。

「変わってないのね」
「あ……?」
「ふふっ、店のこと」

 ぐるり、と店内を見渡してから、加奈子は懐かしがって注文したカフェ・ラッテを飲む。

「でも、静馬は変わったね」
「そう、か?」
「うん、雰囲気がなんか堂々としちゃった。店長になってもう結構経ったからかな」

 それに加えてヤクザを日々ぶん殴っているからだろうとは口が裂けても言えない。
 当のヤクザはといえば、偶然か意図的かいつもならば見せる姿を影すら見せず、店内は静馬と加奈子のふたりきりだ。

「……で、突然どうしたんだ」

 用がなければ元恋人の店になど顔を出さないだろう。少なくとも静馬の知る加奈子はそういう性格だった。まして焼けぼっくいに火がつく性格でもないはずだ。
 そういうところはお互いドライで似通っていたな、と今更静馬が思いだしていると、カップを置いた加奈子が困ったように笑う。

「今度結婚するの」

 見合いで知り合ったがいいひとだと加奈子は言う。

「でも、なんだか怖くなっちゃった」
「マリッジブルーか」
「そうね。言ってしまえばそうだわ。新しい生活、今まで通りとは違う関係。そういう枠組みに入ることが怖くなっちゃったのよ。
 そうしたら静馬の、テッセンのことを思い出して……あはっ、来ちゃった!」

 加奈子はとても結婚に対して憂鬱になっているとは思えない明るさでかんらかんらと笑い出す。
 対して静馬はげんなりとため息を吐く。マリッジブルーに悩んだ末に元恋人を訪れるなど醜聞もいいところで、相手方に知られたらなにかしらの波風が立つだろう。
 しかし、加奈子は静馬の頭痛を察してか「大丈夫よ」と言う。

「言ってからきてるもの」
「はあ?」
「『元彼のやってる喫茶店にいってきます』って」

 激しい頭痛と眩暈を起こしかけた直後、ふと思い直して静馬は「そうか」とうなずいた。
 そう言って来れるだけの関係を相手と築いているのなら、静馬が余計な心配をすることはない。

「これからも来ようかな」
「それは……」
「嘘よ。これっきりか、次来るときは旦那様と一緒」
「……だったらこの時間帯はやめとけ」
「あ、丁度休憩になるとか?」

 がらんとした店内に加奈子が言うが、ヤクザと引き合わせないためだと説明するわけにもいかず静馬は曖昧に頷こうとした。しかし、それより早く加奈子が閃いたというように手を打つ。

「気になるお客さんがいるんだ! どんなひと? 美人? かわいい?」

 美人なのか、かわいいのかと問われれば美人よりだが男である。上品な人形のように整った顔をしたヤクザである。これも言うわけにはいかず、静馬は妙なところで働く女の勘に唸り声を上げた。

「ねえねえ、どんなひとー?」
「……面倒くさい奴」
「うわ、ひどっ。でも、そんなこと言えちゃうくらいの仲なんだ。もう付き合ってるとか?」
「……そういう意味じゃないが付き合いだけなら一年くらいだよ」
「へえ、意外ね」

 なにが、と胡乱な目を向ける静馬に加奈子は悪戯っぽく笑む。

「面倒くさいっていいながら一年もでしょ? 付き合ってた頃のあんたならそういう相手は徐々に距離とってたわよ」

 とろうにも相手が詰めるのだと言えばさらに面倒くさいことになりそうで静馬は沈黙する。沈黙しながら拒絶しない自分と一瞬だけ向き合いため息を吐いた。

「あはは、これ以上詮索しないわよ」
「そうしてくれ……」
「そうするわ。あ、そうそう」
「今度はなんだ」
「招待状はいらないわよね?」

 結婚式の。

「勘弁しろ……!」

 四季とのやりとり以上に悲痛で悲嘆で切実な声でもって静馬は全力拒否した。

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あきゅろす。
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