小説




 夾士郎には歳の離れた妹がいる。名前は菫。名に相応しく可憐な容姿の彼女は生まれつき軽度の知的障害を持っていて、健常者よりも動作や思考が遅い。けれども決して理解できないわけではないので、根気強く相手をしてやればきちんと応えてくれる。
 しかし、その根気をもてなかったのが夾士郎の両親だ。
 菫の年齢が片手を越えた頃に知的障害が判明したのだが、それからは連日互いの罵りあい、責任の押し付け合い。その間菫を守り育てたのは夾士郎だ。
 数年経ってとうとう険悪極まった両親の夫婦仲は離婚という結末に到ったが、当然菫は宙ぶらりんとなった。父と母、どちらに引き取られても菫は不幸になるだろう。ならば、と夾士郎は声を上げる。

「菫は俺が引き取る。成人してるし、構わないだろう」

 それにあんた達とこれ以上家族ではいられない。
 歯に布を着せない夾士郎の物言いに両親は怯んだが、厄介者を押し付けられるなら、と喜んで菫の保護者を歳若い夾士郎にした。若い兄と知的障害の妹。苦労は目に見えているのに頑なに両親は金銭の話をしなかった。ただ、古い家だけはそのまま与えられた。
 しかし、夾士郎は別に援助など必要なかった。
 親には敢えて知らせなかったことだが、夾士郎にはある特技、能力があった。
 共感覚。
 有名なのは一定の文字に色がついて見えるなどの能力だが、夾士郎のそれは使い方一つで恐ろしいほどの結果を齎すものである。
 夾士郎は数字に「意味が読めた」のだ。
 まるで真面目な生徒の教科書に書かれた注釈のように、数字に意味が添わって視える。
 成人してからインターネットでこっそり実験したが、百発百中で株取引や数字を使ったギャンブルで勝利した。共感覚は病でもなんでもない、ただ他のひとには備わっていないだけで生涯失われることのない六感のようなものである。
 夾士郎はただ歩いているだけで後ろにぞろぞろひとを惹き付け歩き、一声上げれば恍惚とした顔をされるような類稀な容姿や声、神による最高傑作といわんばかりの「形」を生まれ持ったが、そんなものはこの共感覚の前では無意味である。
 容姿を利用しても金は稼げるだろう。しかし、誘拐や変質者などの人災が恐ろしい。ならば引きこもって株や為替をやっているほうがよほど稼げるというものだ。なにより、菫を見ていてやれる。
 夾士郎がその気になれば国の経済など自由自在にできるだろうが、出る杭は打たれる。ほどほどの加減を見極めながら夾士郎は金を稼いでいった。
 そしてまた暫く、夾士郎と菫に転機が訪れる。
 その日もPCに向かっていた夾士郎に菫が「お兄ちゃん」と声をかけた。
 菫はへたに活発に動き回らないよう、普段からきっちりと着物を着せている。黒地に赤の鹿の子絞りは一見渋いが菫によく似合っていた。

「どうした?」
「怪我してるの」

 夾士郎は慌てて立ち上がったが、菫は痛そうな顔をしておらず「あっち」と庭のほうを指差した。
 厭な予感がした。
 しかし、確認しないわけにはいかず菫に手を引かれるまま庭へと向かえばそこには若い中性的な男が血塗れの脇腹を押さえながら転がっていた。

「……おい、あんた大丈夫か」

 気が動転すると逆に冷静になる性質の夾士郎は呻いている男に声をかけた。
 男はよろよろと顔をあげ、痛みを忘れたように呆けた顔をした。

「あら、わたしはまだ死んでないと思ったんだけど……」
「生憎天使でも神様でもねえよ」
「そう、お迎え来たかと思ったわ。そうよね、私のお迎えなんてあなたみたいにきれいな……ぐっ」

 長く話して痛みが走ったのか男は脂汗を額に浮かべながらか細い呼吸を繰り返す。菫の「だいじょーぶ? おねえさんだいじょーぶ?」と泣きそうな声が逆に場違いだった。

「救急車呼んだら逆に恨まれそうだな」
「そう、ね……勘弁してほしいわ」
「迎えとか来るのか?」
「ええ……それまで見逃してくれない?」

 夾士郎は頭の中で素早く推理と計算をする。

「いいぜ。止血用タオルだのも用意してやるよ」

 夾士郎に打算の気配を嗅ぎ取ったか、男が苦笑いしながら「ご親切にどうも」と応えた。
 これが匂坂夾士郎と園江貫之の出会いで、久巳組の金策担当となる切欠である。



「――そっからはもうお互い利害の一致だな。匂坂は自分と菫守れるだけのバックが欲しかった。俺たちは優秀な『金のなる木』が欲しかった」

 四季は共感覚の部分を伏せながら、夾士郎との出会いを語る。
 あのとき、まだまだ四季たちは久巳組の下っ端だったが組長の実子と内縁の兄弟とでも言うべき存在、それも組の在り方を左右する案を出して実際に成功へと向けさせた。目の上のたんこぶに思う連中は多かったことだろう。敵は「敵」だけではない。味方すら敵のなか、四季も貫之も死に掛けたことが何度かある。
 それでもこの命、簡単に捨てられるわけがない。
 背負いあった命は、もう失われた命は、四季と貫之にとって――

「おい、四季」
「……あん?」

 遠くへ視線を飛ばしているうちに、静馬は着替え終わっていた。

「豆、店から持ってくるから行くぞ」
「お、おう」

 珍しく抵抗せず話にのってくれた静馬に面くらいながら、四季は静馬が施錠するのを見計らってから後ろを歩き、革靴で階段をかんかんと鳴らす。
 時折吹き込む雨に震えながら「もう梅雨か」と口のなかで呟いた瞬間、鼓膜に数秒前に聞いた静馬の声が蘇る。

 四季。

 短い、たった二文字の音、名前。
 それが静馬の口から出たと気付いた瞬間、四季は唐突に胸をかきむしりたくなるほどの衝動を覚える。溢れそうになる感情を押さえつければ、その飛沫がまた四季の胸に波を立てて涙となって零れそうだった。

「…………静馬」

 恐る恐る呼びかければ、静馬はなんのこともないという様子で振り返る。階段ゆえに見上げられる形だが弱々しさとは無縁の強い眼差しがあった。

「なんだよ」

 嗚呼、と四季は落としそうになる音を堪え、首を振る。
 十分だ。十全だ。これ以上ないほど、幸せだ。

「なんでもないぞ」

 名前を呼ぶこと、呼ばれること。
 それがこんなにも幸せであることなんて、四季は知らなかった。忘れていた。
 ああ、そうだ。
 いま自分は幸せなのだ、しあわせなのだ!
 叫んで主張したいのを我慢しながら四季は静馬の準備を手伝い、夾士郎のマンションへと向かう車へと静馬を案内した。

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あきゅろす。
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