小説




 ごろり、ごろり。
 テッセンの定休日に静馬は本を読みながら床を転がり、見るからに自堕落な態度であった。
 梅雨時のじめじめした空気は静馬の気分を下げるが、こんな日だから雰囲気に酔いたいのかテッセンを訪れる客足は安定していて、このままいけば今月の帳簿も黒地だろう。その数字に大いに貢献しているのはいうまでもなく四季である。それに対して最近舌打ちすることはなくなったものの、やはりこの数字の分だけ交流があるのだと思うと静馬は難しい顔になる。
 思い出したら落ち着かない気分になって、静馬は頭に文章が入ってこない本を潔く閉じてぱたり、と仰向けに寝転がる。
 外の天気は今日も雨。このまま眠ってしまえば風邪をひくかもしれないが、態々かける物を持ってくるのも億劫で、ただただ無意味に時間が過ぎる。
 どれほどそうしていただろうか、重くなり始めた静馬の目蓋はピンポーンというインターホンの音を聞いて開かれる。
 慌てて起き上がりながら返事をして、平和ボケした日本人の性か相手を確認せぬままドアを開ける。
 ああ、既視感。
 ドアの向こうには上品な人形のような顔をしたヤクザがきらきらしい笑顔で立っていた。

「よう、マスター。今日は肌寒いな」
「だったら今すぐ返って毛皮でも着てろ」
「ああ、アザラシの毛皮はあったかくて防水性も高くて最高だぞ」

 静馬は四季の応えに顔を引き攣らせるより先に、アザラシも毛皮として扱われているということに少し驚いた。精々がシルバーフォックスだのミンクだのを想像していたのだが、アザラシとは全く発想の範疇にない。

「しかし、人間は業が深いな」

 テレビで見かけるくりっくりの瞳を思い出しながら呟く静馬に、四季はくつくつとおかしそうに笑う。

「確かにな。だが、使ってる時点でそれをいうのはお門違いだ。マスターの財布、クロコだろ」
「祖父さんが悪いもんじゃないってくれてもう何年かな」

 鰐皮は大きな琥珀を使って鞣すのだが、静馬の持つ長財布はところどころくたびれてはいるものの、未だ艶が残っている。祖父の言葉通り、ものが悪くないのだ。
 革製品は近年技術の進歩が目覚しい。昔は革屋の近くは臭くて寄れないほどだったのだが、いまはそんなこともない。重さだって随分と軽くなった。それをいうならビーズ刺繍もだが、それはこの場にいる男二人にはあまり縁のない話だろう。いや、四季は自身が「財布」となるという点であるかもしれない。

「で、結局なにしに来たんだ、くそヤクザ」
「ああ、匂坂覚えてるか?」

 静馬は頷こうとして、ふと夾士郎の顔がまったく思い出せないことに驚く。
 神がかった美貌、黄金比の容姿という印象は覚えているのだが、いざそれを思い描こうとしても適わない。
 それを察したのか、四季が「あいつ自身のこと覚えてるならいいぞ」といい、静馬にまた珈琲を淹れに来て欲しいという要望を伝えた。

「……まあ、構わねえけど」
「悪いな、休日なのに」

 静馬一人で昼夜店を回すのは中々大変なのだが、それでも静馬は祖父から譲られた店に余人の手をいれたくない。
 珈琲を淹れる祖父の隣で豆を挽いたこと、カウンター越しに祖父の友人から紅茶の淹れ方や面白おかしい話を聞いたこと、ずっとずっと昔から降り積もる思い出を誰かに分けたくないというささやかな独占欲だ。だから、静馬は多少辛くても昼はカフェ、夜はバー。休みは週に一回を一人でこなす。もちろん、それがいつまでもできるかといわれれば無理だろう。祖父は友人を、というより祖父の友人が率先して店員をかってでいたが静馬にそういったあてはない。そうなればあとはもう休日を週二日にするくらいしか手段はあるまい。
 目の前のヤクザに相談すればあっという間に解決しそうだが、静馬はそれをしたくない。
 好意を利用することは静馬の嫌うところだ。いくら日頃から蛇蝎の如く扱っていようと好意につけ込み迷惑をかけて良心をいためないほど残念な育ちを静馬はしていなかった。

「で、匂坂さんのとこにはこれからか?」
「ああ。ただ……」
「あ? ほかにもなんかあるのか?」

 四季は難しい顔をしてから仕方ないといったように口を開く。

「匂坂以外にもひとがいてだな……」
「……ヤクザか」
「いや、その妻」

 静馬の脳裏に極妻という単語が過ぎる。実際のヤクザの妻は銃をぶっ放したり、組の在り方に口を挟んだりはせず、できず、ヤクザの男にはさん付けで呼ぶ、あくまで下の立場である。組長の妻は「やっかいもの」という呼称があるほどだ。もっとも随分古い言葉なので現在ではあまり聞かないようだが――

「俺は極妻についていける自信が……」
「あ? ああ! いや、その辺は大丈夫だぞ」

 なんのことだ、とばかりにぽかん、としたあと、四季は手を顔の前で振る。

「いるのは菫だ。覚えてるか?」
「あの美少女かって、ああっ? あれがヤクザの奥さんっ?」

 ほにゃほにゃと無邪気に微笑む菫を思い返した静馬の声がひっくり返る。
 詳細は知らないが動作仕草から少しばかり知的障害があるらしい菫はまるで童女のように稚い風情がある。それがヤクザの妻とはいったい何事か。そして、四季曰く国家機密級の錬金術師だという夾士郎との関係とは。

「菫は匂坂の妹なんだぞ」
「……どうりであれだけの美少女……」

 夾士郎には遠く及ばなくてもモデルや女優が束になってかかっても適わぬだけの美貌を菫も持っている。

「んー、菫がここ気に入ってな……その関係でこれからなんかあるかもしれないし、マスターにはちっと話しとくか」
「……まあ、聞くだけは。露払いだの火の粉払いだのはやれよ、クソヤクザ」
「もちろんだぞ」

 苦笑いしながら四季は話し始める。
 ある兄妹と久巳組の妙なる縁の話を――

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