小説
四十
「――で、結局お前はどうすんだ」
「考えてくれるって!」と電話越しでも踊り狂っているのがよく分かる声音で伝えてきた彼方自身のいない静かな秋田家の夕飯を終えた頃、唐突に切り出した徹に玄一は眉を顰めたが次いで「ああ」とうなずき居住まいを正す。
「染めの道に進みたい、進みます」
「時勢分かってるか」
「ああ」
「でもやんのか」
「ああ」
「かなと離れてもか」
玄一は怪訝な顔で徹の淡々とした顔を見る。文江が声もなくそれぞれの前に茶を置いていく。
「やるなら半端なことは許さねえ」
「ああ」
「十年」
「あ?」
先ほどから焦れったい物言いをする徹に、とうとう玄一の声にも剣が混じった。だが、じっと目を合わせてきた鉄の真剣な眼差しに粗暴が口を突いて出ることはなく、しゃんとしたまま続く言葉へ耳を傾ける。
徹は湯のみに手を伸ばし、軽く握ってからそのまま座卓に頬杖をつく。飲むには熱かったらしい。
「十年、かなと離れる覚悟はあるか」
十年。
突然持ち出された長い時間に、玄一は目を見開く。
「それは、どういう……」
「てめえがやるっつうなら外で十年間みっちり仕込まれてこいっつってんだよ」
「そと?」
「身内が甘やかして教えたもんがどれだけの血肉になる。上手くいけばかながあの榎津久秀の弟子入り……お前、かながどんだけのもんになるかほんとうに分かってるか? かながほんとうの意味で『立った』とき、お前はどれほどのもんができる? それはそのときのかなに釣り合うもんなのか?」
玄一は息を呑む。
彼方が刺繍を始めたのは玄一と出会うよりずっと前。
玄一がようやく家業である染めに向き合ったのは彼方と出会ったから。
下地の差、土台の差。
分野は違えど実力の差が目の前にまざまざと現れる。
「かなはいいって言うだろうな。俺らが教えてお前がやってそれでできたもんが一番だってなんの不思議もなく言うんだろうな。もっと腕のある職人が染めたもんを見向きもせずに」
徹の目が問いかける。
ただやりたいのか?
ただ一緒にいたいのか?
なんのために彼方が「やりたいことをできるよう」玄一は奔走したのか。
玄一の今までが徒労とは決して誰も言わない。
だからこそ、もっとも障害となる玄一自身の「実力不足」という言葉が重い。
彼方ばかり先へ行けるように促して、自分の遅れを取り戻すことを後回しにした。必ず取り戻せる、取り戻すと決めていたから。
その考えの甘さが「十年」という年月か。
「お前が頷くんなら、十年間みっちり仕込んでくれって頼むあてがある。かなり遠いから住み込みでな」
「どのくらい」
「盆暮れ正月しっかり帰って尚且つ別に様子伺い来れたら孝行息子って呼んでやるよ」
玄一は考える。
榎津の工房は近くはないが、もし弟子入りが叶えば彼方は通いで師事するようになるだろう。
彼方は動けない。動かない。そこにいるべきだ。
そして玄一は――
「ありがとう」
「ああん?」
滅多に聞かない言葉に鳥肌がたったとばかりに徹が腕を擦り、化物でも見るような顔で玄一に厭そうな目を向ける。
「色々用立ててくれて、感謝してる」
「なんだいきなりてめえ気持ち悪いな」
「ほんとうにクソ息子か」と失礼なことを言う徹に顔が引き攣らせることもなく座卓から体をずらして徹の前にくると、玄一はそのまま指をついて頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
全部が篭った言葉である。
今時住み込みでの弟子入りを受け入れてくれるところなんて滅多にない。それだけの余裕がある所自体少ないのだ。それなのに十年という時間を用立ててくれたこと。玄一の考えの至らぬ部分を補って考えてくれたこと。
今まで散々好き勝手しておきながら、と徹も文江も一度も言わない。
そもそも「お前がうちを継ぐんだぞ」と言われたことすら一度もなかった。いつだってふたりは「やりたいように」と許してくれた。
彼方と、彼方が、彼方のために。
隣ばかりを見つめていた玄一には、振り返るべきひとたちがいたのだ。彼方と並べるように、と背中を押してくれるひとたちが。
「……高校卒業したら、行って来い」
「おう」
頭を上げて頷き、玄一は壁にかかったカレンダーを振り返る。
卒業まであと半年。
専門学校に行って、学びながら彼方と騒がしい日々を送るのだと漠然と考えていた日々の色が、がらりと変わる。
染めを生業にするゆえ身近だった「変化」という言葉が、まるで差した影のように寒いものを感じさせた。
ひとりでぺたりと座り込み、じっと花を見ていた彼方。
淋しいと泣いた彼方。
ああ、だけれど。
(碓井がいる。大槻がいる。馬鹿どもは殆ど手懐けた……親父さんにひとりで会いに行けた……)
大丈夫。
祈るように繰り返す胸の内も、徹との会話も告げられぬまま数日後、彼方から再び電話がかかる。
「俺ね、俺ね! 榎津先生の弟子になれる! 先生の言った学校受かったらいいよって!!」
興奮しながら話す彼方からどうにか聞き出した学校名は、なるほど条件となるに相応しい。
「そんな浮かれ調子で大丈夫か」
「だってだってだって俺がんばるし! 絶対ぜったい弟子になるし!!」
そうと決めたら自身を省みず打ち込む彼方のことだ、きっと果たしてみせるだろう。
ときにその勢いを首根っこ掴んで抑えてきた玄一は、安心感すら抱いて「そうか」と返した。
「……玄ちゃん? なんかあった?」
「うん、いや……――俺も進路決まっただけだ」
「あ、専門行くって言ってたもんね」
「いや」
「え、やめたの? じゃあ……」
「卒業したら十年くらい修行行ってこいだとさあ!」
わざと明るい声で黙っていたことを打ち明ければ、一瞬沈黙が返ってきて、それからようやく彼方のか細い声が聞こえた。
「どこに?」
「――ってとこ」
「遠いね」
「殆ど帰れねえな」
徹に言われるまでもなく、遊びに行くのではないのだからそう簡単に帰省できやしないし、する気もない。
「そっか、さしびーねー」
けれどもあまりに軽く言われて玄一は足元が冷えたような気持ちになったが、次の言葉には目頭が熱くなった。
「ちょっと前なら泣いてたよ『あたしを捨てるのね酷いひとッ』って。
でも玄ちゃん違うもんね。そんなことしないもんね。絶対ぜったいちょー一流になって帰ってくるし! その間に俺もめっちゃ頑張るし!!
だからね、だから……」
鼻を啜る音が聞こえる。
「そんときは玄ちゃん、安心して『いってきます』と言うように!」
こんなに力強い涙声は聞いたことがない。
玄一は「おう」だとか「ああ」だとか区別のつかない返事をして、見えない彼方へ向かって何度も頷く。
「ねえ、玄ちゃん。今度碓井たち誘って海でも行こ。俺ねー波間みたいに金糸織り込んだ柿色の地に松の刺繍ってかっけえと思う」
「はは、そりゃまた派手だな」
「夕暮れに松背負ってアロハに負けない海の漢を演出!」
いつも通りの会話。
これが十年途切れると思うと、まるで波に足元の砂をすくわれていったように心細い気持ちになる。けれども、だからこそ十年波打ち際に立ち続けてみせよう、と玄一は決意する。
「海行って、秋になったら紅葉も見ようね。冬になったら雪いっぱいつもるところも!」
彼方の並べ立てる大雑把な予定に、玄一は頷いていく。
いつか「いってきます」と言う時に少しでも悔いがないように。
「春になったらね」
「桜、咲くんだろ」
いまはまだ、根すらささない制服を思い出せば、彼方が「ううん」と唸る。
「予定変更か?」
「うーん……うん、変更! でも絶対ぜったいがっかりさせないから安心してオーケィ!!」
なにを変更したのか玄一は問わない。彼方が保障したのならばそれは絶対だ。
だって、玄一はなによりも誰よりも彼方の刺繍に心奪われているのだから。
十年の別離が淋しい。恐ろしい。
けれど、嗚呼。
玄一は彼方の描く世界を見れる日が楽しみだった。
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