小説
三十六



 出かける予定の日、玄一に伝えぬまま彼方がやってきたのは父親である秀次の仕事場近くの小料理屋だった。緊張して早く出たので早くついてしまったが、話は通っているらしく彼方はひとり店の個室へと案内される。
 いぐさ座布団にちょこん、と心なしちぢこまりながら座る彼方の向かいには秀次が座る予定だ。
 突然連絡を寄越した息子に秀次は驚いていた様子だが、快く時間を設けてくれた。
 できることならなんでもやる、という意気込みが短い会話でも十分伝わる様子だったのを思い出し、彼方はどきどきと煩い心臓を少しだけ宥める。

(大丈夫……)

 言い聞かせるように彼方は繰り返す。
 ここは飯田橋の家ではないし、会うのは絹子ではない。

(大丈夫)

 彼方がこくり、と喉を鳴らした瞬間、障子の向こうから「お連れ様がお着きになりました」と声がかけられた。
 ぴん、と背筋を伸ばして視線をやれば、しゅっと障子が開かれて春に会ったときとは違い洋装の秀次が入ってくる。

「お、おとうさん」
「久しぶりだね、彼方」

 彼方に微笑みかけて座敷机の向かいに端座した秀次に、彼方はどうにかこうにか強張る表情筋を動かして口角を上げた。

「うん、ひさし、ぶり」
「随分暑かっただろう。飲み物は頼んだかい?」
「ううん」
「じゃあ、それ注文して……食べながら話すのが辛いようなら包んでもらうから」

 自分と長くいるのは辛いだろう、とは言わない秀次に彼方は「だいじょうぶ」と返した。
 話したいことがある、と持ちかけはしたものの、彼方の話とは頼みごとである。とても、大事な。それを秀次の負い目につけこむ形にはしたくない。
 震える息を吐き出しきって、きっと顔を上げた彼方に一瞬驚いた秀次はしかし穏やかに目元を和らげた。



「母さんの?」
「うん」

 机の上に並べられた料理がある程度箸をつけられた頃、彼方は話し始めた。
 内容は祖母の知人を尋ねるものだ。

「葬儀のときに纏めたのが確か残ってるはずだけど……」

 考え込むようように頬を指先で叩く秀次に、彼方は縋るような目を向ける。
 これでよい返事がなければ「これから先」がぐっと変わる。彼方は必死だった。
 虚空から彼方へと視線を戻した秀次は机を乗り出さんばかりの息子にまばたきすると、真面目な顔で指を組む。

「連絡先なら多分、ある」
「それじゃっ……」
「でも、僕は直接知り合ってるわけじゃないから、受けてもらえるかは保証できないよ」
「それでもいい!」

 彼方は「ありがとう」と搾り出すように礼を言う。
 一つ、段階が乗り越えられてほっとした彼方の顔に、いざ頼られてもまるで役に立たないような返事しかできなかったのに、と秀次は切ない気持ちになった。

「彼方……どうして、そんなに?」
「できることは全部やりたい。それができるようにってそんな柄じゃねえのに色々してくれる奴がいるんだ……俺助けられっ放しで、支えられっ放しで……俺どうしてもそいつとした約束守りたい。叶えるだけなら他にも楽な方法いっぱいあるけど、叶えただけで終わりになんて絶対しない、できない! 潰れないでずっとずっと続けていきたいんだ。だからお願いします、お、おか……さんとのことでいっぱい迷惑かけてる、けどっ……お願いします! 渡りだけでもつけてください!!」

 頭を下げた彼方に秀次は立ち上がり、机を回りこんだ。
 長く触れることすらなかった父親に抱きしめられ、彼方は息を飲む。

「僕にできることは全部やる。そんなお願いしなくていい。そんなふうに頭なんて下げるんじゃない」

 秀次の声は震えていた。

「ごめん。ごめん、ごめん、ごめんね、彼方。絹子のこと、お前はなんにも悪くない。お前が罪悪感持つ必要なんてどこにもない。お前はこんな風に情けない親を怒りこそすれ、自分を責めなくていいし遠慮もいらない。
 こどもが親を頼るのに、申し訳なくなんて思わなくていい。
 僕はお前がどんなものをやっているのか、この目で見たことはない。でも、お前がやりたいことを定めているなら、どうして応援しないでいられるだろう。僕にできること、いいや、たとえ僕にできないことでも困ったことがあればなんでもいいなさい。きっと僕はお前の助けになれるようにする。お前自身のことじゃなくてもいい。秋田くんだったね。彼のお母さんからも話は聞いている。ほんとうに、足を向けられないなあ……約束したのも、彼なんだろう?」
「う、ん。うん、うん……玄ちゃんだよ。俺、玄ちゃんが染めた糸で刺繍やるんだ。絶対、絶対ぜったいやるんだ」
「そっか」

 ぐしゃぐしゃと彼方の頭を撫でる手は不器用で、そんな仕草がまったく似合わない玄一のほうがよほど上手かったけれど、彼方は変わらず温かい掌にこみ上げる涙を堪えられず小さく嗚咽しながら頬を濡らした。

「彼方、お前の頼みは重々承知した。連絡だけは絶対につける。だから、お前も秋田くんとの約束が守れるよう、がんばりなさい」

「父親」の言葉を受け取って、彼方は声もなく何度もなんども力強く頷いた。



「はい、もしもし……はい? ええ、存じておりますが……え…………はい、はい……」

 和装の男は鳴った電話をとり、思わぬ相手に目を白黒させた。

「え、それは……」

 いったいどういう用だろうかと思った男は相手の話に戸惑う。普段の男であれば断っているところだが、今回は相手が相手だったし、またその勢いも熱心、いや電話越しですら土下座せんばかりというまさに懇願だった。

「いや、私はそんな……申し訳ありませんが…………」

 しかし、それでも男には男なりに考えることがあり断ろうとして相手方の名前を呼ぼうとし、ふっと頭に過ぎったものに口を閉ざす。

「……あ、すみません。あの、つかぬことをお伺いしますが……」

 まさか、まさかあるわけがない、と男は視線を揺らしながら受話器を僅かによけて、緊張に震える息を吐き出して呼吸を整える。

「飯田橋さん、息子さんというのは、ええと、坂枝高校でしたか? そちらに通う『飯田橋彼方』くんではありませんか……?」

 驚きながらも返ってきたのは肯定。
 男は襟元を片手で直しながら、静かに目を閉じる。
 瞼の裏には淑やかな紫色がよみがえり、あのとき湧き上がった感情がゆらゆらとふるべられる。
「彼」が自分を訪ねるというのなら、つまりはそういうことなのだろう。

「――分かりました」

 再び目を開けば男の心は定まった。

「息子さんとお会いします」

 どうなるかは分からない。
 しかし紡がれた縁、ここで断ち切るにはあまりにも男にとって未練がある。
 刺繍家としての未練が。

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