小説
三十五
祭の翌日、彼方はいつもより遅く目が覚めた。
じっとりと全身にかいた汗と窓から吹き込むぬるい風、なによりも部屋全体がむしむしと暑く、お世辞にも爽快な目覚めとはいえない。
夏よ終われ、と心から願いながらタイマーにより止まっていた扇風機へ腕を伸ばせば、ほどなく羽が回り出して汗をかいた体を冷やしていく。
「……玄ちゃん?」
扇風機の恩恵で人心地つき、タオルケットを緩慢にはぎながら隣へ視線をやった彼方はぎっちりと眉間に皺を寄せて寝入る玄一に小首を傾げる。
玄一の寝顔を見られるのは珍しく、彼方は安らかそうには見えない寝顔をじいっと覗き込んだ。
いつもなら彼方より早く起きているだろうに、やはり玄一も疲れたのだろう。人混みを歩き回るのは体力気力ともに奪われるものだ。
(……玄ちゃんは、俺らより気ぃ張ってただろうしなあ)
祭の最中、時折厳しい視線をどこぞへと向けていた玄一に気付いていた彼方は、へにゃりと眉を下げながら微笑む。
彼方はあまり周囲に頓着しないから、しなかったから、玄一と知り合った当初は秋田玄一の名前を知らなかった。暫くしてどうやらべらぼうに喧嘩が強いらしいとか、寄ると危ない不良と呼ばれているらしいことを把握したのだが彼方の知る玄一は自分の刺繍を認めてくれて、一緒に先を歩こうとしてくれるひとだ。
玄一がいるから、ただ手元ばかりに落とされていた彼方の視界は広がった。
文江が彼方に言ったことがある。
「あの子ね、かなちゃんといるようになってから喧嘩すること減ったのよ」
元々自分から吹っかけることをしなかったが、売られれば全力で買っていた喧嘩を避けるようになったという。
やられたらやり返す。それだけではずっと終わらない。けれど、ただやられっ放しなだけでも増長するだけ。自分のことは多少我慢して、周囲に向かいそうなものを潰していく。
人付き合いが好きではないのに情報を回してくるよう、それとなく交流幅を広げているのを彼方は知っていた。
「そんなんじゃ疲れちゃうでしょう」
彼方は枕元にある団扇をとって、玄一を煽いでやる。
少しだけ緩んだ眉間の皺にほっとしながら、彼方はカレンダーに目をやる。
夏休み。
高校三年の夏休みだ。
自分が思っている以上に早く過ぎ去ってしまうだろう時間に、彼方はきゅ、と団扇の持ち手を強く握る。
「……俺ばかだけどさあ、玄ちゃんがっかりだけは絶対にさせないから」
彼方が呟く声は小さいのに強く、いつもへらへらとしたところが抜けない顔は真剣そのものだった。
そっと玄一を起こさないように立ち上がり、彼方は部屋を出る。
「珍しいな」
もっとも暑さが厳しい午後、簾を下ろしているので外の眩しさに反して室内は薄暗いが、日が高くならないうちに打ち水を遣ったおかげか入る風は不快じゃない。
「祖母ちゃんはお茶やってたから夏以外でも遣ってたんだけどねー」となぜか足元をびしょびしょにしながら水を撒いていた彼方はいま、玄一の向かいで色付きのそうめんにはしゃいでいるのだが不意に「俺、来週出かけるー」と言い出した。
「俺だって予定くらいあるもんね!」
「そりゃあるだろうよ」
「ひょっとしたら泊まりになるかもしんね」
「は?」
思わぬお泊り宣言に玄一の箸からそうめんが滑り落ちる。玄一の驚いた顔がよほど面白かったのか、彼方は笑いを堪えようとしているのがよく分かる頬の膨らませ方をした。玄一の片手が容赦なく膨らんだ両頬を潰す。
「ぶはっ」
「泊まりって、お前どこ行くんだ」
彼方が一人で旅行に行く性格をしていないことを玄一は知っているし、泊りがけで遊びに誘う知り合いの話も聞いたことがない。彼方のことなら全部知ってるなどとは言わないが、聞きもしないことを彼方がべらべら話すので大抵のことなら知っているつもりだ。
「祖母ちゃんの関係でちょっと」
「ああ……そうか」
殆ど祖母に育てられた彼方は、茶道をやっていた祖母の弟子などとも顔を合わせている。中にはいまでも続く縁があるのだろう、と玄一は頷いた。
「気をつけて行ってこいよ」
「あいあい」
「財布落とすなよ」
気楽に頷く彼方に不安を覚え、玄一はつい小言めいた注意をせずにいられない。
「もう落とさないしっ、ちゃんと鞄にしまうしっ」
「その鞄を落とすなよ」
祭のときの嫌味かと彼方がぶんむくれるがそれがまた玄一の心配性を煽り、つい注意を重ねてしまった。宗司と駿が聞けば間違いなく「おかあさん」と指差して笑い出すことだろう。
「玄ちゃんのばかっ」
「てめ、クソカナッ」
とうとう怒った彼方は玄一の薬味皿を奪って自分の麺つゆに投じ、奪われた薬味に玄一は腰を浮かせて声を荒げた。薬味大事派である。
ぎゃあぎゃあ言い合う声はピンクの麺を食べたからエロいエロくないの小学生レベルにまで発展し、その日の昼食は静かな日本家屋に二人きりとは思えないほど賑やかだった。
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