小説
三十



 みんみん喧しいほど蝉が大合唱する季節、彼方は畳の上にべったりと這い蹲っていた。そばには扇風機が一台、緩慢に首を振っている。

「玄ちゃあん、暑いー。アイスちょーだい」
「お前さっきも食っただろうが。腹壊すぞ」

 頭にタオル巻いて甚平を着た玄一は縁側の日陰に座り、地面に置いた水の張った盥へ両足を突っ込みながら乾燥した染料を鋏でぱちんぱちんとチップにしている。
 彼方の祖母は冷房が嫌いなひとだったらしく、いまは彼方しか住んでいなくても家には扇風機があるだけだ。年々増す夏の気温が辛い。
 夏休みが始まる前は喚いていた彼方だが、夏休み入って本格化した暑さに喚く気力も奪われたようで、ここのところはぐったりとしている。
 しかし、一度刺繍を始めれば黙々と作業を始めるので、いつ熱中症を起こすか玄一は気が気じゃない。食事を用意するのも億劫らしく、どこかやつれた彼方に食事情を訊ねれば「昨夜は板擦りした胡瓜ー、今朝は麦茶ー」といつにも増してだらだらした返事をされた。思わず頭引っ叩いた玄一に彼方は「火の前立つの辛いんだもん!」と主張したが、食事を疎かにしていい理由にはならない。なので玄一は週一で彼方の家に泊まり、週に二、三は彼方を自宅に引っ張り込んでいる。双方の親公認なのでなにも問題はない。

「玄ちゃん、玄ちゃん」
「今度はなんだ」
「暇!」
「寝ろ」
「やだ!」

 即答にイラッとした玄一は鋏を置いて立ち上がる。濡れた足を畳んでおいたタオルで乱雑に拭い、沓脱石に揃えたサンダルをつっかけながら庭へと向かう。日陰から出れば途端、痛いほどの日光が降り注いで玄一のこめかみに汗が伝った。

「玄ちゃん?」

 突然庭へ降りた玄一を不思議そうに見た彼方は、匍匐前進で縁側までやってくる。
 彼方の声に返事をせず庭をうろついた玄一は、目当てのものを見つけると暑さに辟易しながら戻ってきた。

「これでなんか図案でも描いてろ」

 寝そべりながら顔を上げる彼方は、不自由そうな動きで玄一の差し出す瑞々しい一葉を受け取った。

「露草」
「好きだろ」
「うん」

 まじまじと露草を眺めた彼方は、先ほどまでのぐだぐだした様子から一転、のっそりと起き上がって居間を出て行く。おそらく自室のスケッチブックを取りにいったのだろう、と考え、玄一は再び縁側に腰掛ける。
 暫く、戻ってきた彼方と玄一は、それぞれ無言で手元の作業に没頭した。


 ようやくふたりが手をとめたのは、すっかりと居間が薄暗く、外から入る日差しが橙色に変わってからだ。静寂を裂くように鳴り響いた電話に彼方は「うぇいっ」と奇妙な声を上げ、玄一もぬるくなった水を波立たせる。
 まろびそうになりながら駆け出す彼方を見送れば、どうにか切れる前に間に合ったらしく内容は分からずとも彼方の声が聞こえてきた。
 そろそろ夕飯の準備をしなければならない時間に、玄一は片付けを始める。庭に撒いた盥の水が、冷えた風を送り込んできて涼しかった。

「玄ちゃん、玄ちゃん」

 丁度片付けを終えた玄一は、大声で呼ぶ彼方に何事かと眉間に皺を寄せる。
 凝った肩を回しながら電話台のある廊下へ向かえば、彼方が会話口を押さえながら手招いていた。

「どうした」
「碓井たちが祭行かね? って」
「祭りぃ?」

 品なく語尾を上げる玄一に彼方が唇を尖らせる。

「次の土日に中央公園でやるんだって」
「行きたいのか」
「おうよ!」

 玄一は人混みが好きではない。
 まして、祭などという否が応でも興奮する人間が多くなる場所では、八割がた絡まれることになる。玄一ひとりならばどうということもないのだが、喧嘩慣れしていないほかの人間を巻き込むつもりはない。

「あー……土産よろしく」

 途端、彼方の眉が下がる。

「玄ちゃん行かねーの?」
「……いや、その」

 目を泳がせる玄一にしょんぼりした彼方が通話口を押さえていた手を離し、受話器を耳にあてる。

「もしもし、碓井? うん、俺今回パス……」

 玄一は彼方の手から受話器をもぎとった。

「時間何時だ? ああ、了解。現地? あいよ」

 さくさくと通話を終えて受話器を置いた玄一は、きらきらした目で見上げてくる彼方にため息を吐く。
 ここはどうにか説得するべきだと分かっているのだが、彼方の落ち込んだ声音に気付けば玄一は白旗を上げていた。

「お前なあ……」
「だって玄ちゃんいねえと楽しくないしっ」
「いや、分かんねえだろ。知らねえ奴ならともかく、碓井と大槻だろ」
「だったら尚更玄ちゃんだけいねえの変じゃん」

 なんてことないように言われて玄一は嬉しいやら困ったやらで、面映いものを感じる。
 けれども、これだけはしっかり伝えなくては、と玄一が真面目な顔をすれば、彼方は少しだけ怯んだ様子で上目遣いになった。

「いいか、はしゃいで逸れるなよ」
「あい」
「絡まれたら俺を呼べ」
「あい」
「俺が絡まれたら逃げろ」
「……やだ」
「逃げろ」
「…………うぇーい」

 不満そうな彼方に心配が残るけれど、祭まで少し間があるいま言っても仕方ない、と玄一は肩を竦める。
 それよりも、いまはやるべきことがあった。

「カナ、タイムセール付き合え」

 このままぐだぐだとやっていれば、間違いなく歴戦の主婦に遅れをとる。
 セール攻略法を身につけ始めた玄一は「ラジャー!」と敬礼する彼方を伴い、お一人様一点限りの商品目指してスーパーという戦場へと向かった。

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