小説
六杯目



「四季は飲み込みが早いね」

 ノートに平仮名とカタカナ、自分の名前を漢字で書き終えた四季に、貫之は感心したようにうなずく。
 小学校に通う前にこれくらいは、と四則演算も合わせて教えているのは貫之だ。
 貫之自身はそれらを覚えるのが遅かったせいで苦戦したのだがその分しっかり身についていて、教える側として優秀だった。
 できないことを知っているというのは重要だ、と四季は教えられながら思う。

「なあ、にーに」
「うん?」
「にーにと薫さんの名前はどう書くんだ?」

 どうせならふたりの名前も漢字で書けるようになりたいと訊ねれば、一瞬戸惑ったような顔をした貫之が僅かにぎこちなくノートへシャーペンを走らせた。
 苗字はどちらもない。
「薫」「貫之」と名前が並んでいる。
 四季はこっそり貫之を覗う。困ったように眉を下げて曖昧に笑う貫之がいたので、四季は「苗字はないの?」と訊ねることをやめた。

「難しい字」
「覚えてしまえばそうでもないよ」
「うん」

 漢字は基本的には直線で成り立ち、作りに法則がある。それを最初に理解していれば、画数が多くても惑うことはなくなる。
 四季はノートに兄と母親代わりの名前を書き連ねていく。

 しばらくはがたがただった文字が読めるようになった頃、貫之が薫に呼ばれて部屋を出て行った。
 ひとりシャーペンを握っていた四季は、貫之が戻ってくる前に、とノートへ薄く文字を書いた。
「叶薫」「叶貫之」
 四季は唇を少し噛み、消しゴムで文字を消す。
 薫にしても貫之にしても、叶姓を名乗ることはきっとないだろう。
 とうに亡い四季の母親に遠慮して周囲が「姐」と黙認しても決して自ら認めず、仄めかされても否定する薫が「叶」を名乗るわけがない。
 貫之にしてもそうだ。四季という組長の実子がいる状態で「愛人」が連れて来たこどもを養子にすれば、いったいどんな面倒が増えることか。
 実子を組長に据えれば組が荒れるが、態々養子にとった子であれば意味合いが変わってくる。
 久巳組第一の千歳がそんなことを認めるはずがない。
 四季が心でいくら家族と感じていようと、血と立場が許してくれない。

「……お、かあさん……おにい、ちゃん……」

 願いを声にしても、音は歪に罅割れていた。
 それが哀しくてすん、と鼻を鳴らすのだけど、四季は決して涙を流さなかった。どんなに目頭が熱くなっても、鼻がつん、としても、涙だけは流さなかった。
 ただのこどもでいることを実父が許してくれなかった四季は、哀しいのも痛いのも自分だけではないと知っていたので。
 深呼吸を一回。四季はシャーペンを握りなおし、またノートへ向かう。
 書けるようになった字でノートをいっぱい埋めて、薫と貫之に見せるのだ。
 きっと、ふたりは笑顔で褒めてくれるだろう。
 そのときの表情を想像しながら、四季は一所懸命に字を綴る。



 四季の入学準備で離れが静かに忙しいなか、母屋のほうは緊迫した空気が流れつつあった。

「……西の連中か」

 どうにもシマの気配が怪しく、部下に調べさせていた千歳は届いた知らせに吐息のようなため息交じりに呟いた。
 関西の組織が関東進出を目論んでいるのか、ここのところ密かに久巳組のシマへ出入りしているという報告は朝一番に聞くには至極厭なものだったがしかし、遅ければ遅いほど碌なことにはならないという面倒なもので、千歳は目覚めの一服として吸っていた煙草を乱暴に灰皿へ押し付ける。
 許せることではない。だが、ただ怒鳴り上げて蹴散らせばいいというものでもない。
 歴史ゆえか、はたまた手段の違いか。関西と関東ではヤクザの規模に差異がある。
 決して小さな組織ではないが、大本である高槻会ならばまだしも、久巳組が西とやり合えば打撃は免れない。なればこそ、事の進め方は慎重にならざるを得ないのだ。

「なんだってここで西が出張るかねえ」
「どうなさいますか、組長」
「出入りしてるだけってのがうぜえな。まあ、上手いとこ土地探してるんだろうが、そうは行くかよ。動いたらすぐ押さえられるようにしろ」
「はい」
「身内にも目ぇ光らせろよ」

 息を呑むのは報告へ来た若頭の長崎だ。
「まさか」と「まさか」に緊張した顔をする長崎に皮肉な笑みを向けて、千歳は乱暴な仕草で片膝立てた胡坐をかく。

「他人がひと様んとこに入り込むのはな、家人の手引きが一番簡単なんだよ」

「さーて、どこのバカヤロウだ?」といっそ愉快そうに千歳は言うが、いざ相手を潰すときはこれ以上なく残虐に振舞うことを、長崎は長い付き合いのなかでよおく知っていた。

 沈殿した泥をゆっくりとかき混ぜるように事態は不穏なものを孕み、それを沸き立たせ始める。

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