小説
三杯目
朝、起こしてもらうこと。
以前はチンピラな気配の抜けない部屋住みの誰かが四季に声をかけて朝を迎えたのだけど、いまでは貫之がそれをしている。
隣から聞こえてくる目覚まし時計と、襖を開ける音で四季が目を覚ますときもあるのだけど、四季は「兄」に起こしてもらうのがうれしくて狸寝入りをしていた。
「坊ちゃん、朝ですよ」
まだ声変わりをしていない貫之の声で迎える朝は悪くない。悪くないがしかし「坊ちゃん」呼びが気に食わず、四季は目を瞑ったまま開かない。
「坊ちゃん……四季、朝だよ」
苦笑する気配に狸寝入りがばれていると悟り、四季もむにゃむにゃと口元を笑ませて目を開ける。
「おはよう、にーに」
「おはようございます」
「敬語だめ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい。さ、顔洗いにいこう」
「今日のご飯なに?」
「今日は……」
貫之に手を引かれながら歩く廊下には朝食の香りが漂い、四季はきゅう、と腹を虫を鳴かせる。
部屋住みが作っていた朝食を、いまは薫が作っている。かと言って、図々しく他人の仕事を取り上げるわけではなく、薫の采配はひとの機微にも気が配られていた。
薫は自身を「愛人」と言い切っているが、離れへ来てからは実質「姐」のような状態だ。しかし、誰も薫をそう呼ばない。たとえ相談役が「千歳はいい嫁をもらったな」などと顔を合わせるたび言っていたとしても、組長である千歳が認めていない状態で呼べるわけがない。
呼んでもいいではないか、と四季は思う。
そうすれば、自分も「母」と薫を呼べるのに、と。
長い時間過ごしたわけではないが、四季は「家族ごっこ」が「ごっこ」でなくなればいいのに、と早くも思っていた。
時折、薫に向かって「お母さん」と呼んでみるが、薫はやさしい微笑で「あなたのお母様は、綾子さんですよ。それだけは決して忘れてはいけません」と繰り返す。
千歳に「どうしても、お母さんと呼んではいけないの」と問うたことがある。千歳はどこか人形に似た感情を造られたような顔で「忘れ形見くらい『母親』を覚えていてやれ」と答えた。
四季は産みの母を覚えていない。いや、むしろ知らないと言ってしまったほうが正確だろう。
話には聞いたことがある。千歳に惚れて惚れて、カタギの、それも良いところのお嬢さんにも関わらずヤクザの妻へとねじこんだ烈女。
写真が残っている。若干たれ目だが、気性が表れているのか吊り目にも見えるところが四季によく似ていた。
しかし、それらは全て知識でしかなく、綾子本人を知るものではない。四季は知識から得た「想像の綾子」しか知らない。
それが問題である、と千歳も薫も思っているのだ。
「お前を産んだ女がいるから、お前がいる。その女を知っていようが知らなかろうが、事実は変わらない。忘れるな。お前を産むために命をかけた女がいる。その女は間違いなくお前の母親だ」
言葉の内容のわりに、千歳の声に熱はない。
綾子という女性個人に、特別な思い入れがないのだろう。
「なんで、結婚したの?」
「都合がよかったから」
四季は千歳の性根を思って肩を竦めた。ろくでもない親を持つと、子供は厭な背伸びを覚えてしまう。
「四季?」
少し前の会話を思い出してぼうっとしていた四季は、貫之につないだ手を振られてはっとする。
「どうしたの、具合悪い?」
「ううん、平気」
「朝ごはん食べられるか? 無理するなよ?」
「大丈夫。その言い方、薫さんみたいだぞ」
「……お腹が痛かったり、気持ち悪かったりしたらすぐににーにに言うのよ」
四季と貫之はくすくす笑う。
薫との付き合いが長く、離れへ来る前の数年間をともに暮らして店も手伝っていた貫之は女性口調がうまい。中性的な顔立ちと相俟って、妙に似合うのだ。
ふたり手を繋ぎながら笑っている姿はほんとうの兄弟のようで、朝早くから廊下を磨いていた部屋住みの青年はこっそりと微笑んだ。
「薫さん、おはよう」
居間への障子を開けてあいさつをすれば、箸を並べていた薫がにっこり笑って顔を上げた。
「おはよう、四季さん。貫之もおはよう」
「おはようございます」
「いまご飯よそうから、座ってなさい」
「はーい」
四季にとって食事といえば、それを作っていた部屋住みと特別会話盛り上がることもなく、まさしく味気ないものだったが、薫たちが来てからの食事は楽しかった。部屋住みの作る食事だって不味くないはずなのに、それよりも美味しく感じられた。
「あ、胡麻和えだ」
「四季さん気に入ったみたいだから。この前はほうれん草だったから、今日はいんげんにしてみたけど……口に合うかしら?」
小鉢によそわれたいんげんの胡麻和えは美味しそうだ。四季は薫が作るまで胡麻和えを食べたことがない。似て非なる白和えがあったからだ。白和えよりも分かりやすい甘みのある胡麻和えを食べたときは美味しくて目を輝かせたのだが、薫はしっかりと気付いてくれていたらしい。
若干そわそわしながら席に着けば、隣に座った貫之が笑う。
「よかったね」
「うん」
「はい、これくらいでいいかしら」
適度にご飯のよそわれた茶碗をそれぞれ受け取って、最後に薫が席へ落ち着けば朝食の始まりだ。
「いただきます」
挨拶の言葉は自然と揃うようになっていた。
食事を終えると四季は幼稚園へ向かう。
一緒に行くのは薫と貫之で日替わりなのだが、今日は貫之だった。
玄関で弁当袋と幼稚園鞄を四季に持たせ、薫が見送る。
「気をつけてね。貫之、四季さんをよろしく」
「はい。行くよ、四季」
「ん。いってきます」
「いってらっしゃい」
紺色の着物の袖を上品につまんで手を振る薫に元気よく振り替えし、四季は貫之とつないだ手もぶんぶん振りながら歩く。
「四季ー、あんまり暴れると転ぶわよー」
「大丈夫だぞー。あ、にーに、そろそろクレヨンの青と茶色がなくなりそう」
「ああ、じゃあ買っておかないと。その二色だけ?」
「うん」
「好きな色なの?」
四季はちらり、と随分上にある貫之の顔を見上げる。赤味の強い茶髪の向こう、晴れ渡った青空が広がっていた。
「青は薫さんがよく着る色で、茶色はにーにの髪の色!」
驚いた顔をした貫之は、すぐ嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして四季をぎゅうっと抱きしめる。
「そっか……そっかあ!」
「にーに、このまま走ってー」
「いいわよー!」
上機嫌に四季を抱き上げて、貫之はだっと走り出す。びゅんびゅん風を切る感触と揺れは、まるでジェットコースターのようでとても楽しかった。
思えば、一番平和だった頃の話である。
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