小説
二杯目



 叶四季を産んだ女は、四季を産んでしばらくすると亡くなった。
 名前を綾子。
 世間知らずの箱入り娘。階級言葉を自然に使うお嬢さん育ちの彼女がなぜ、ヤクザの久巳組組長叶千歳の子を産んだのか。それはあまりにもくだらぬ、ありふれた話と四季はいまでも思っている。
 顔も声も覚えていない綾子のことを、四季は「お母さん」と呼んだことがない。これからもないだろう。

 四季には母親のようなひとがいた。
 名前を薫。
 凜とした面差しをした、千歳の愛人である。
 楚々として常に三歩後ろを歩き、何事も気丈に乗り越え、大和撫子を地でいく薫と四季が対面したのは、四季が五つになるかならないかの頃のこと。
 千歳が「これくらいの歳なら実母との区別もつくし、頭の融通も利くだろう」と四季が暮らす本家の離れへ連れて来たのだ。
 元々は夜の店を経営していた薫は、本家の離れへたったひとり、少年を伴った。
 薫の息子ではない。
 薫の店の近くにある住宅には、大抵似たり寄ったりの人種が暮らし、ストリートチルドレンが何人かいた。少年はそのひとりで「殺される」ところを薫が背負ったこどもだった。
 名前を貫之。
 四季よりも九歳年上だが、まだまだこども。一度背負った存在を途中で放り出すことなど薫は決して良しとせず、千歳もそれを許した。
 頑固なところのあるひとだった。
 千歳に「お前の母親代わりだ」と紹介された薫を、四季は「お母さん?」と呼んだ。直後、薫は首を振る。ゆったりした仕草はすっきりした胸元を品よく見せた。

「いいえ。いいえ、四季さん。私はあなたのお母様ではありません。あなたのお母様はただひとり、命がけであなたを生んだ綾子さんだけです」

 四季は千歳の顔を見た。
 静かに凪いだ表情に、敏いこどもであった四季はこれがふたりの間で了解のことであると知る。
 だから、千歳は「母親代わり」と紹介したのだ。薫は「母親」ではない。
 千歳が千歳であるからにして、家族というものにまだ憧れ抱いていた幼い日の落胆を、四季は今でも抱えている。
 四季は頷いて薫を「かおるさん」と呼んだ。舌足らずな呼びかけに、薫はうれしそうに微笑んだ。

「貫之のことは好きに呼べ」

 次いで四季が貫之へ視線をやれば、これには千歳がさくりと応えた。顎で促された貫之が四季に向かって頭を下げる。

「貫之です。なにかあればお申し付けください」

 身体が出来上がり始めた少年は、四季の世話役につくらしい。
 久巳組本家の離れ、いくら千歳の了承のもと連れて来られた人間であっても、理由なしに住んでいられる場所ではなかった。
 つくづく、と四季は思った。
 つくづくこの父親は、と。

「なんと呼んでもいいの」
「ああ」

 返事は貫之ではなく千歳から。
 四季はうなずく。五歳とは思えぬ重々しさがあったけれど、貫之を見遣る目には茶目っ気があった。

「にーに」
「……は?」
「お兄ちゃんになって」

 困ったように貫之は千歳を見るが、千歳は薫と貫之を紹介してから初めて感情らしい感情を顔にのせる。
 にやり、と面白そうに唇を吊り上げたのだ。

「兄、ね。いいじゃねえか」
「千歳さん、それは……」
「なあに、まだこどもだ。まだ。先は知らんがいまはこどもだ。それでいいんだろう、薫」

 くつくつと喉の奥で笑う千歳へ薫が物言いたげにするが、千歳は立ち上がり四季と貫之の頭へ手をおくと、そのままぐりぐりとふたりの頭を撫でた。

「仲良くしろよ。ま、喧嘩も好きなだけすりゃいいがな、そんときゃ兄弟喧嘩の範囲で収めてくれや」

 親としての言葉ではないと、誰に言われるでもなく分かってしまうのは、五つのこどもにとって酷なことだろうか。そして、唇を噛んで喉を上下させた十四歳のこどもにとっても。
 千歳は緊張するふたりのこどもに気安く笑い「じゃ、部屋の案内は任せたぞ」と四季に向かって首を傾げたが、思いついたように手をぽん、と合わせる。

「ああ、貫之。お前の部屋は四季の隣だ」

 貫之が仰天して口を開ける。

「えっ、それは……」
「なあに、こいつが兄だというんだ。ならそれでいいだろう」
「で、ですがっ」

 愛人が連れて来たというだけのこどもに部屋を、それも息子の隣へ与えるという千歳は誰にとっても理解し難いが、四季はこのときそれに乗った。

「にーに、おれの隣はいやですか」
「いいえ、とんでもない」
「じゃあ、時々いっしょに寝てくれる?」

 困り果てた貫之の代わりに千歳が勝手に「おうおう、いくらでも寝てやるよ」と応えた。それが決定である。
 急ごしらえも急ごしらえ、ままごと染みて空虚な誂えだが、それでもできた「兄」に「家族」に四季はうれしかった。ほんとうにそれを望んでいるかはさておき、ままごとですら叶わぬ「家族ごっこ」をしたかったのだ。

「かおるさんもいっしょに寝てくれる?」

 うれしさついでに調子に乗れば、うっすら微笑を湛えて黙っていた薫が頷こうとして、その口を千歳に押さえられる。

「薫は俺と寝るんだよ、バカヤロウ」

 四季が初めて見る「叶千歳」の感情そのままにむき出された言葉と顔だった。



 この顔を知らなければ、四季は千歳が薫を愛していたなど生涯信じなかっただろう。

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