小説
一杯目



 五月初旬も終わりを迎える頃、四季はテッセンに向かっていた足を店から出てきた客を見て止めた。
 初老の婦人と、まだ若い青年の二人連れは、幸福がにじみ出るような顔で四季の横をすれ違っていく。
 四季の目を惹いたのは、鞄を青年に持たせた婦人がたったひとつ、大事に抱える小さな花束。
 真っ赤な色のジャコウナデシコ。
 英語名をカーネイションという、五月にもっとも多く見かけるであろう花である。

「……母の日か」

 呟けば胸が微かに痛み、四季はそれを誤魔化すように早足でテッセンへと歩き出す。

 身構える間もなく脳裏を駆け巡った「過去」に、眩暈がしそうだった。



 いやあ、今日もいい天気ですね、なんて一組の親子連れを見送った静馬はご機嫌だったのだが、入れ違いにやってきた四季の姿にその機嫌も下降する。いい気分のときにやってくるなど、つくづく嫌な男である。
 しかし、そう顔を顰めそうになった静馬は、四季の青い顔色に舌打ちより早く「大丈夫か?」などという心配をしてしまった。

「ああ、大丈夫だぞ」
(こりゃ大丈夫じゃねーわ)

 四季の返答に静馬は「ふー」と長い息を吐く。
 普段ならば四季の心配など全くしない静馬が「大丈夫か」などと訊ねたことに対する反応もなく、ましてなにか調子が悪く見えるのか? と不思議がる様子もないということは、なにかしら思い当たることがあり、さらにはそれを繕う余裕もないということだ。四季としては異常事態もいいところだろう。

「……まあ、座れよ」
「どうしたんだ、マスター。今日はデレ日か。それとも、とうとう俺に……」
「店で倒れられちゃ迷惑なんだよ、くそヤクザ」

「マスターのいけず」などと口を尖らせる様はいつも通りに見えなくもないが、しかしやはり常時よりも覇気がないのは確かだろう。
 静馬は四季がなにか注文するより早く牛乳を取り出して、ミルクパンで火にかける。

「ホットミルクいれてやるから、とりあえずその顔色どうにかしろ」
「……そんなに悪いか」
「悪いっつうか……なんか幽霊にでも遇ったような顔してんぞ」

 四季が苦い顔をした。
 ああ、ほんとうに切羽詰ってるなどと察したくもないことを察して、静馬は口をひん曲げながら牛乳に蜂蜜をひと匙いれる。とても深い香りと味わいの蜂蜜は養蜂農家が自分たち用に作ったおとっときで、静馬にとっても滅多に使わない大事な一品だ。

「おらよ」
「ああ、悪い。ありがとさんだぞ」

 とん、とカウンターにマグカップを置けば、四季は両手でカップを持って景気悪そうに啜ったものの、目元をほっとゆるめた。

「いい香りだな」
「そりゃ結構。これを癖に感じる奴いるからな」
「俺は好きだぞ」
「そうかい」

 四季は猫舌でもあるまいに、ふー、とミルクの表面に息を吹きかける。
 言葉を持て余した様子に、らしくもなく助け舟のひとつも出してやりたくなった静馬だが、四季はどうにか自分で泳ぎ始めた。

「今日、母の日だな」
「そうだな。さっき来たお客さんが話してたわ」

 息子から母へ親孝行の一環として、一緒に出かけるそうだ。

「マスターは、なにか……」
「……好き勝手してるひとだからな、電話しても『ふーん』で済まされそうだよ」

 情緒深いほうではない母を思い出し、静馬は肩をすくめる。
 四季は力なく微笑み、ひと口啜ってマグカップをカウンターに置いた。

「親孝行は出来るうちにしとけよ……ちっ、すげえ年寄りくせえな」
「自分で言うなよ、四十路」
「三十路からは急加速だぞ、マスター」
「まだ三十路じゃねえ」
「そうだな、アラサーだな」

 嫌な言葉があるものだ、と静馬は歯噛みする。
 しかし、この他愛ないやりとりに解れるものがあったのか、四季はどことなくいつもの調子を漂わせながら両肘ついて頬をのせながら静馬を覗う。

「きめえな」
「ひでえな」
「四十路の仕草じゃねえよ」
「四十路に夢抱いてんじゃねえぞ」
「……で、母の日がどうかしたのか」
「ああ、うん。拗れたマザコン刺激されてちょっと」

 あっさりと言った四季に胡乱な顔をして、静馬は軽く腕を組む。
 マザコンと四季、どうにも結びつかない単語である。

「てっきり親でも売り飛ばす派かと思ったが」
「ばっか、マスターのばっか、俺は家族大切にする派だぞ。だからマスターも安心して嫁にだな……」
「うっせ、ばっか、黙れ、ばっか。で、お前がマザコン拗らせるってどういうあれだよ。常々親の顔が見たいとは思ったが」
「なんだ、俺の親に挨拶したいなら早くそういえばいいのに。マスターの照れ屋さんめ」
「黙れ、くそヤクザ」

 ちぇっ、といいながら、四季はごそごそと取り出した財布から小さな写真を取り出す。
 随分古いものなのか、あちこちよれた写真にはカメラに向かって駆け寄る幼い少年と、それを後ろから見守る中性的な少年、そして青い着物姿の美人がひとり写っていて、傍目にも親愛が溢れる一枚だった。
 静馬はカウンターに置かれた写真と四季とを見比べて、ぎっちりと眉間に皺をよせる。

「おい、この美少年はどちらさまだ」
「御年六歳の俺と十五歳の兄だ」
「……兄弟いたのか。というか、嘘吐いてんじゃねえよ。この天使みたいな美少年がお前みたいな悪魔になって堪るか。名誉毀損で訴えられるぞ」
「マスターを訴えてやろうか……ちなみにこのときの俺はこんだけ愛らしく振舞えば後で菓子がたんまりもらえると踏んでいた」
「性善説なんて二度と信じねえ。どんなガキだちくしょう」
「まったく、ここでおひねりと考えない辺り、まだまだかわい気が……」
「せめて小遣いといえ!」

 怒鳴った静馬にすっかり調子を取り戻した四季が「今では立派にシノギを稼ぐようになりました」と大真面目な顔で言って殴られる。

「親御さんが泣くぞ」
「むしろ親御さんがヤクザでな。いや、こっちは泣いてるか」

 ちらり、と向いた四季の視線の先、写真のなかの美人は幼い四季へいっぱいの慈しみを込めて見つめていた。

「……このひとがお母さんか」
「――いいや」
「は?」

 四季は切なそうに微笑む。

「このひとを、俺は『お母さん』とは絶対に呼べないんだぞ」

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あきゅろす。
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