小説
二十八



 明日で終わらせるということもあり、彼方が布団に入ったのはいつもより少しだけ遅いのだが、玄一は布団の中で本を読みながら待っていた。

「ごめんね」
「別に。いつも起きてるだろ」

 たとえ同じ布団を使わなくても、玄一は彼方が戻るまで起きて待っていた。それは彼方が徹夜などという無茶をしないための見張りでもあったが、普段、彼方がこの家で聞くことがないだろう「おやすみ」というありきたりな挨拶をするためでもあった。
 そこで、玄一は気付く。
 一緒に寝たいと言い出したのは、今日で玄一が泊まるのが最後だからだ。
 また機会はいくらでもあるだろうが、さすがに明日になれば玄一は実家に戻る。
 当たり前のように寝起きを一緒にしていた分、寂しさを感じてもおかしくない。
 その証拠のように、彼方は玄一に抱きつくようにぴったりと寄り添い、布団にもぐっている。

「……カナ」
「ん、おやすみ」
「明日、うちに泊まりにくるか? お袋にも会ってなかっただろ」
「んーん、今度でいい」

 意地を張っているような口調ではないが、彼方は玄一の肩に頭をすり寄せる。寝る前に問答するには長引くだろうから玄一もこれ以上は言わないが、布団から腕を出して彼方の髪を梳いてやる。心地良さそうにする彼方の慰めに、少しでもなればいい。

「おやすみ、カナ」
「おやすみ、玄ちゃん」

 彼方を布団の上から抱くようにして、玄一は目を閉じる。

 その夜、玄一は見たことがない揃いの縫い紋を背負う、着物姿の青年ふたりを夢に見た。



 最後だからと焦って大急ぎをしたわけではないが、やはり「終わった」という安堵感により気が抜けたのだろう。
 玄一が宗司と駿を伴って帰ってきたとき、彼方は刺繍が完成した麻布の脇に転がり、安らかに眠っていた。
 疲れているなら、と言う宗司にひらひらと手を振り、玄一は彼方の鼻をつまみ「ふがっ」と驚いたように目をぱっちり開けたのを見計らうと、次いで彼方の両腕を引っ張って上体を起こした。

「おはようさん」
「お、はよー、ございます?」
「ふたり連れてきたが、完成したか?」

 ぱちり、とまばたきをした彼方は、ばっと首を刺繍台へ向けてから、またばっと視線を玄一に戻し、その後ろに立っていたふたりへ向ける。

「で、できました!」

 すちゃっと敬礼をしながら言う彼方にふたりは顔を見合わせ、それからいっせいに彼方へ飛び掛った。

「うわっぷっ」
「っお疲れさまあああああ!!」
「次は僕がんばるよ」

 抱きつかれ、頭をぐしゃぐしゃに撫でられてもみくちゃになる彼方に玄一は笑い、彼方はそんな玄一に助けを求めて腕を伸ばす。

「げ、玄ちゃん、たすけっ」
「折角労われてんだ。もう少し堪能しとけ」
「そんなっ」
「お疲れお疲れ、ほんとありがとう彼方あああああ!」
「やっぱり全部仕上がると違うね」

 ぎゅ、と力強く彼方を抱きしめてから刺繍台の傍へ行った駿はほう、と感嘆のため息を吐き、全体的な仕上げに向けて気を引き締める。

「多分、今日中には終わるよ」
「なら、レポートのほうも殆ど平行させちゃったから、全体的なまとめをやっても明後日には提出できると思う」
「なら、早めに大槻が持ってったほうがいんじゃね。今外すー。玄ちゃん、袋よろー」
「あいよ」

 ゆっくり観賞するのは完成してからでいい。
 長い作業を終えた余韻もそこそこに、四人は次の段階へと進んでいく。
 丁寧に包まれて袋に入れられた麻布を受け取った駿は「あとは任せて」と力強く言い、宗司とともに足早に帰っていった。これから急ぎ取り掛かるのだろう。
 玄関先でふたりを見送った玄一と彼方は、こうして並んで立っていることにようやく自分たちの役目の終わりを実感した。

「っあー、お疲れ!」
「ほんとにな」
「玄ちゃんにはお世話になりましたー」

 ぐーっと伸びをした体勢から、がばっと頭を下げた彼方の頭をぐしゃぐしゃと撫でて、玄一は「じゃあ行くぞ」と声をかける。

「へ?」
「今日は煮込みハンバーグだとよ」

 言いながらすたこらと家の中へ戻る玄一に、彼方は「え? えっ?」と戸惑った声を上げる。

「ちょ、玄ちゃんなに、どういうことっ?」
「あ? お袋が人数分飯作ってるからさっさと帰るぞって話だ」
「人数分、て……」
「お袋、親父、俺、お前」

 ぽかん、とした彼方は次いでくしゃり、と顔を一瞬だけ泣きそうに歪め、べし、と廊下を歩く玄一の背を叩く。

「いてえな」
「すぐ、準備してきますっ」
「おう、俺も荷物片すわ。まあ、いくつか置いてくが」

 後の言葉の意味を察して、彼方の肩が震えるが、それを振り切るように彼方は廊下を駆け出した。途中、寝巻き代わりのだるだるしたジャージに足をとられて踏鞴を踏んだが、どうにか堪えてまた駆ける。

「転ぶなよ、飯は逃げねえから」
「こ、ろびません!」

 上ずった彼方の声に目を細めながら、玄一はすっかり馴染んでしまった部屋からいくつかの荷物をまとめ始める。
 歯ブラシや、寝巻き代わりのシャツなどは置いていく。
 元から少なかった荷物は、来た時よりも僅かに少ない。
 それを玄関に持っていけば、着替えた彼方がばたばたと駆け戻ってきた。

「忘れもんは?」
「ない!」

 ほんのり赤い目元を指摘せずに問えば、しっかりした応えが返る。

「じゃ、行くか」
「あい!」

 当たり前のように手を差し出してから、玄一は「あ」と声を上げそうになったが、彼方はそれよりも早く、やはり当たり前に玄一の手をとったので、玄一はそれをしっかりと握った。
 握り返される手は白く、玄一とは対照的だったが、誂えたようにお互いぴたりと当てはまっていて、ふたりはその心地よい感触に声もなく微笑む。

 五月はもうすぐ半ば近くを迎える。

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あきゅろす。
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