小説
二十



 染めは一日がかり、なかには一週間や二週間かかるものも珍しくない。
 玄一がなんとか中干しにまで到った頃には、日が暮れ始めていたが、それでもまだ終わりではない。なんといっても糸は複数、色も複数なのだ。
 腕をさすっていた駿は、家が秋田家から距離があるらしく、最後の水洗いが終らないうちに帰っている。その際、玄一の部屋にいた彼方にも声をかけたのだが、どうやらペンを握ったまま寝ていたらしく、そのそばには完成図と思われる絵の描かれたスケッチブックが転がっていたので、勝手に見てしまった、と悪びれる様子もなく言った。
「やっぱりいいね」と少しだけ笑った顔に刺々しさなど欠片もなく、いつもそうしてりゃいいのに、と玄一は思うだが、それは余計なお世話というやつだろう。

「あと干すだけだし、お前も無理しなくていいぞ」
「んー、干してるとこも撮りたいんだよね……」
「それぐらいやっとく」

 いま、残っているのは彼方と宗司だ。宗司も時計を気にしているのでうながしたのだが、遠慮しいなのかカメラを手に持ったまま困り顔をしている。

「でも、ぼくただでさえできること少ないし……」
「これから他の奴らの作業にも張り付いて、レポートまでやるんだろ。お前が一番働いてるんじゃねえか」

 玄一に進んで苦労を背負いたがる人間の気持ちは分からない。楽できるところは楽してなにが悪い、と思っているのだが、世の中それでは渡っていけない、努力家などの存在もいることを知ってはいる。なので「お前めんどうくせえ性格してんな」と直情的にものを言うことはしないのだが、ぐじぐじといつまでも続けるようだったら苛立ちを覚え、それを拳で表現したかもしれない。もっとも、玄一に絡んでくる不良に対するものとは違い、軽い拳骨程度だが。

「おら、マジで暗くなんぞ」
「うわっ、ほんとだ」

 窓の向こう、すっかり茜色に染まった空を指せば、宗司はわたわたと慌てだし、おずおずと玄一にカメラを差し出した。

「えっと、ごめんね。お願いします」
「了解。お疲れさん」
「まだ彼方寝てるかな……お家のひとにもよろしく言っておいてください」

 ぺこぺこと頭を下げる宗司に頷きながら、玄一は玄関まで見送った。やはり急いでいたのか、小走りで夕焼けに向かって走っていく宗司は、まるで鞠が跳ねているようにも見えて源一は少し笑った。



「カナ。おい、カーナ」

 ぺしぺし頭を叩かれながら呼ばれ、彼方はぼんやりと目を開ける。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 視線を上げれば、しゃがみ込んで顔を覗きこむ源一がいて、彼方はうっすら笑いながら腕を伸ばす。

「おこしてー」
「自分で起きろ」
「ケチ、玄ちゃんのけーち」

 べし、と先ほどよりも強く頭が叩かれて、彼方は渋々起き上がる。畳の上にうつ伏せで寝転がっていたので、節々が痛い。

「顔、跡になってる」

 ぺた、と彼方の頬に当てられた玄一の手はひんやりしていて、嗅ぎ慣れないにおいが残っていた。それを感じて、彼方はまだしょぼしょぼしていた目を見開く。

「他のやつは?」
「もう帰った」
「うえっ、いま何時」
「五時過ぎっつうか……もう六時前か」
「うわあ……ごめん、俺マジで寝てた」

 目元に落ちてきた髪を乱雑にはらいながら、彼方は傍らに閉じられているスケッチブックを引き寄せる。

「えっと、見た? 多分媒染液の違いでどうにかなると思うんだけど……」
「ああ、追加色な。どれだ?」
「ん」
「ああ、これなら鉄媒染でいけるだろ」

 彼方に差し出されたスケッチブックと色見本を見比べ、玄一は頷く。

「今回はいいが、あんまりほいほい思いつくなよ」
「思いついちゃったんだもん」
「もんとか言ってもかわいくねえよ」

 べし、と再び頭を叩かれ、彼方は頬を膨らませた。
 しかし、仕方がない。自分達の趣味だけで納まらないことなのだから。
 分かってはいるのだが、普段はできないことができる分、あれこれやりたくなってしまうのだ。彼方はぐりぐりとこめかみを掌で揉みながらため息を吐く。

「でも……」
「あ?」

 柄の悪い返事をする玄一だが、怒っているわけではないし、まして彼方を不快に思ってもいない。

「玄ちゃんを困らせたくないなあ」
「はあ?」

 彼方に振り回される玄一だが、ふたりの間のはなしならばいい、と彼方は思う。玄一も譲れなくなれば彼方に言えばいいだけなのだから。
 けれども、たとえば彼方が玄一以外を振り回し、結果が玄一に返るならば、それはよくない。よくないことだ。
 きっと、玄一は彼方が思っている以上に、他人に縛られるのが嫌いだろう。その玄一に玄一のせいではない理由で嫌な思いをさせるのは、彼方だって嫌だ。
 彼方は学ばなければならない。
 今まで触れたことのないものに触れて、見て、聞かなくてはいけない。

「うー……背中こった」

 伸びをして、彼方は立ち上がる。一拍遅れて玄一も膝を伸ばし、ふたりの目線は近くなった。

「カナ」
「ん?」
「あんまり無理すんなよ」

 つい先日、彼方が玄一に向けたばかりの言葉を受けて、彼方はにっかりと笑う。

「無理はしねえけど、頑張るもんねー」

 虚を突かれたような顔をする玄一に抱きつき、彼方はぱっと離れる。

「んじゃ、遅くまでごめんね」
「飯食ってけば」
「んーん、いい……」

 言いかけた彼方は玄関のほうで聞こえた声に「あ」と口を開ける。玄一は鋭い舌打ちをしたあと、苦笑いしながら彼方の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「少し遅かったみたいだな」
「……そーだね」

「かな」と呼びながら近づく足音に、彼方は玄一とともに部屋を出た。

「よう、かな」
「おかえりなさい、おじさん」

 すぐに顔を合せた人物に頭を撫でられた彼方は、それが玄一と似た撫で方であることに少しだけわらい、隣に呆れ顔で立つ玄一の服の裾を摘む。

 似ていても、やはり玄一のほうがよかったのだ。

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