小説
名前を呼んで、呼びなさい



 結局、礼一が眠れたのは夜明け前だった。
 ぐったりと重い身体の望むまま、泥のような眠りに浸る礼一を引き上げたのは、規則正しいまな板を叩く包丁の音と、ふんわり漂う美味しいものの匂い。

(ああ、僕はいいお嫁さんをもらったなあ)

 夢うつつを彷徨いながら、礼一はにへ、と顔を緩ませる。
 お嫁さんが朝食の準備を終えて、やさしく起こしてくれるまでうとうととまどろむ。
 なんと幸せな朝だろうか。
 うふふ、なんて寝言が漏れたのにも気づかず、礼一は未だに覚醒し切らない。

「竹中さん、そろそろ時間大丈夫っすか」

 ぽんぽん、と肩を叩く手。
 もう少し甘えた感じに起こしてくれてもいいのに、と思いつつ、もう少しまどろんでいたくて、礼一の目は開かない。

「竹中さん?」
「んー……」
「いや、んー、じゃなくて」

 ひた、と頬に触れた手を、礼一は無意識につかんだ。
 寝返りを打つ動作のまま腕を引き「うわっ」と驚く声と同時に圧し掛かってきた重みを抱き込む。

「ちょ、竹中さん! 寝ぼけてるんですか?」

 騒がしい声も耳にはいらず、礼一はもがく体を押さえ込み、開かない目のまま手探りにしっくりくる体勢をとる。

「竹中さん!」

 そんなに叫ばないで欲しい。
 竹中さん、竹中さんと、確かに僕は竹中だけれど。

「たけなか……」
「礼一って呼んでよ」
「ひっ?」

 くしゃり、と後ろ髪を乱すように片手で頭を抱え込み、礼一は叫ぶ彼の耳元に「お願い」した。
 固まる腕のなかの体と、引き攣ったような声。
 ああ、彼のこんな状態は初めて……。

 …………彼とは、いったい、誰を指していたんだった?

 礼一はタオルケットを蹴り上げるように、跳ね起きた。
 あれほど重かった目蓋は見開かれ、真っ赤な顔で硬直するさなえを捕らえる。
 抱きしめたまま起き上がったせいで、さなえは身を竦ませたような状態で礼一の腕の中にいる。

「さ、さなえ君……」
「お、おはようございます」

 淡々と厳しそうな常の顔はなく、狼狽を必死に隠そうと微笑んで失敗しているさなえは、なんとか礼一に朝の挨拶をした。

「お、はよう……ご、ごめんね? なんか、寝ぼけちゃったみたい、で……」

 そろそろと腕の中から解放しながら詫びると、さなえは静かに表情を常のものに戻し、ゆるく首を振った。

「いえ、いつもお疲れみたいっすから。寝ぼけてたなら、仕方ないっす」

 狼狽が落ち着けば、いつも以上に冷静なさなえが立ち上がる。

「朝食作ったんで……コーヒー、淹れてきます」

 どこかそっけなさすら感じるそそくさ加減でキッチンに向かったさなえを、礼一は呆然と見送った。

(え、嫌われた? そりゃ、男が男にベッドで抱きしめられても嬉しいわけないけど。え、嘘、ちょっと待ってよ)

 抱きしめた感触も、真っ赤になった顔も、普段ならば喜びを噛み締めるのだが、いまはとてもじゃないがそんな悠長やってられない。

「ちょ、ま、さなえくっぶっ」

 跳ねるように立ち上がり、さなえを追いかける礼一だが、寝起きでふらつく体はあっさりと足をもつれさせ、礼一は転んだ。

「大丈夫っすかっ?」

 途端、音を聞きつけたさなえが駆け込んできて、嬉しいやら情けないやら、礼一はいっそ泣きたくなった。

「うん、だいじょぶー」
「ならいいんすけど……立てますか?」
「うん」

 よっこいせ、と声には出さないが、出したいくらいには大儀だ。
 なんだか急に老け込んだ気持ちになった礼一は、心配そうにこちらを見やるさなえを安心させるように笑いかけた。

「ありがと。それと、さっきはごめんね」
「え……ああ、いいんです。気にしないでください」
「さなえ君?」
「あ、コーヒーそろそろ落ちたと思うんで」

 なぜか、さなえは一瞬硬直して、なんでもないように首を振った。表情も、どこかぎこちない気がして、思わず名を呼べば、明らかにはぐらかしてキッチンへ引っ込んでしまう。

 なんだろう。
 知っているのだ。
 竹中礼一は、様々な人間と腹を探りあい、僅かな表情仕草から相手を読み取ってきた自分は、状況と反応から、導き出してしまう。

(いや、そんな、ありえない)

 さなえは、少し、ほんの少しだけ、傷ついていた。
 さなえは、なにかに気づいた、いや、なにかに思い至った。
 なぜ? なにが理由で? なにがはずみで?

 寝ぼけていた。
 ごめんね。

 抱きしめるだけならば、衝動的にしょっちゅうやっている。けれど、さなえは驚きはしても、嫌がらない。
 寝ぼけて、抱きしめられて、謝られて。
 それは、さなえの望まないことだった?
 寝ぼけて誰にでも抱きつくことを厭う話など、フィクションだけでなく、現実でも聞く話だ。
 そんなことをした相手に対して「誰でもいいの?」「誰と間違えたの?」と……。
 ゆるゆると礼一は片手で口元を覆う。

(僕が慌てて謝ったから、誰かと間違えられた、自分にそんなことをしたいわけじゃなかった、と誤解した?)

 まさか、まさか、まさか。
 そんな都合のいい話、あってたまるか。
 けれど、ひとの顔色を伺うことを、ひとの腹を読むことを必修科目としていた礼一は「さなえの不可解な態度の理由」という問題にこの答えを書かざるを得ない。
 こくり、と喉を鳴らして、立ち上がった礼一は、キッチンの入り口に寄りかかる。

 ――答え合わせを、しなくては。

「ねえ、さなえ君」
「はい? どうしました、竹中さん」

 振り向いたさなえは、既にいつもどおり。
 最初の狼狽も、不可解もなにもかも消えている。
 それでも、礼一は自身の答えに丸付けをするために、口を開いた。

「ねえ――名前で呼んでよ」

 見開かれた、薄いサングラス越しの目。
 ひゅっと息をのむ音。
 僅かに震えた唇と、ぎしり、と強張った体。
 じわり、じわりと赤く染まる顔と耳。

 礼一は唇が吊り上がっていくのを感じる。

 ああ、なんだ。
 つまり、僕のものにしていいって、ことだろう?

 もう、逃がしてあげない、あげられない。


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