小説
斜陽の影に〈祭〉



 隼は駅の改札口に立っていた。かれこれ二十分ほどになるだろうか。
 若い時分ほどではないにせよ、目立つ容姿ゆえにひとの視線がちらちらと煩わしいが、ここにいる理由を思えば視線を理由に引き返そうなどと考えもつかず、隼は時折腕時計を見ながら改札の向こうに目をやる。
 それからまた五分ほど、どこかのホームに電車がきたのか、ぐっと人の気配が濃密になり、改札へ向かってくるのに、隼は少し期待する。
 人混みに目を凝らす隼は、不意に尻ポケットで震えた携帯電話にはっとして、半ば慌てつつ取り出した。
 メールが一件、内容は「駅についた」と一言のみの簡素なもの。しかし、隼にとってはとても喜ばしいものに違いない。
 先ほどよりも熱意を込めてやって来る人々を見渡していれば、ほどなく見つけた群衆のなか頭一つ余裕で飛びぬけた長身の男。顔はサングラスに隠れて分からないが、そのサングラスと、サングラスにかかる白い髪がなによりの証だ。
 前方の人間は気付かないが、シルバーグレーのスーツに身を包んだ男の左右、後方の人間は男を避けて歩き、これだけひとが多くても男の歩みを邪魔するものはいない。すぐに改札へ辿りつき、そこをくぐった男はいつから気付いていたのか、すぐに隼へ向かって片手を上げた。
 隼はすぐに駆け寄る。

「よう」
「おかえりなさい、白さん。荷物、は……ないですね」

 行きには鞄ひとつを携えた男、白だが、帰りは財布と携帯電話以外を送ってしまったのか、荷物らしい荷物はなく、片手を塞ぐのは鈴がついた木製の杖のみだ。

「帰るだけなら邪魔だからな。車は?」
「いまあちこち煩いんで、駐車場に停めてます。すぐ持ってくるんで、少し待っててもらえますか?」
「了解」

 白の身長に合せて誂えられたせいで、一般よりずっと長い杖の上で手を組みながら、白は頷いた。隼は「すぐ戻ります」と一言添えて、全速力で走り出す。
「相変わらず、あいつは犬か」などという白の呟きが聞こえたが、出会った頃同様、三十路近くなった現在でさえ、隼は白の犬になれるのなら構わなかった。



 街の喧騒から少し遠い郊外、住宅街よりも早く夕陽が隠れてしまうところに白と隼の家はある。古きよき時代、著名な作家が晩年を過ごしたといわれても納得してしまいそうな、風情在る日本家屋の平屋が、ふたりの現在の住まいだ。
 門から玄関までの少しの距離を、長距離移動から帰ってきたとは思えないほどしゃっきりした足取りで歩く白は、しかし足を踏み出すのに合せて杖の鈴をちりちり鳴らす。かわいらしい音をたてる鈴がついた杖だが、隼はそれが中距離、近距離において恐ろしい武器になることを知っている。白が杖を携えるようになってから、名を馳せた総長を討ち取らんとした輩は多かったが、その尽くが突き穿たれ、打ち返され、払い転がされてきた。今ではそんな輩はいないが、それでも地元の人間は杖をついた白髪の男を見て畏怖を忘れない。
 隼は唇を一瞬引き結び、ほころばせる。一定の歩調で進む白の横を「失礼します」とすり抜け、玄関へ先んじた隼は古く、いっそアンティークアクセサリーといわれても納得してしまいそうな鍵を革製のキーケースから取り出し、やはり頼りない鍵穴へと差し込む。軽く持ち上げるように回すのがコツだ。引き戸を開けるのは、心持ち前へ押しながら。少しだけ引っかかる戸に「そろそろ蝋引きしねえと」と呟いた隼は、この入り口から取っ付きにくい家に順応していた。

「白さん、飲み物なにがいいですかー?」
「クソ甘い珈琲牛乳かレモン牛乳」
「……喉、渇かねえのかな」

 連泊から帰宅した人間が飲みたがるようなものとは思えないが、白が望むなら隼がそれに異論を唱えることはない。
 引き戸を遅れてやってくる白のために開け放し、隼は一足先に家へ入った。

 スーツの上着やベルトを放り、居間で一息ついた白に冷えた珈琲牛乳を手渡した隼は、白がそれを飲んでいる間に白が脱いだものを片付け、脱衣所にタオルと着替えを用意しにいく。戻った頃、白の持つグラスの中身は半分以上減っていた。

「着替え用意してあるんで、いつでもさっぱりできますよ」
「……なんだろうな、この腑に落ちない感。うん、まあいいや。まあ、いいよ、な? うん……」

 どこか沈痛な面持ちで頷いた白は、残った珈琲牛乳を飲み干して立ち上がる。ついでのように隼の頭を撫でる手がうれしくて、その手に擦り寄った隼だが、白の風呂場へ向かう足取りはとまらなかった。
 隼はその後姿をじっと眺め、目を伏せる。
 やはり疲れているのだろう。外を出歩くときこそ杖を携える白だが、42.195キロに挑むのでもなければ杖なしでも健常者とその足取りは変わらない。しかし、隼が見つめる白は、ほんの少し、たとえば専門の医者や、接骨院などの人間であれば気付く程度に片足を引き摺っていた。

「……ずっと……――ます」

 隼の呟きは、吹き抜けた風にさざめく庭木の音色に消された。



「それで、今度はどんなご用だったんですか?」

 浴衣をだらっと着た白は、二つに折った座布団を枕に畳の上で寝転がる。かりかりと畳の目を引っかくのに笑いながら隼が今回の「帰省」理由を問えば、畳の目がひとつ派手に毛羽立った。
 居間に沈黙が下りる。

「……白さん?」
「隼、落ち着け。慌てるな、死ぬぞ」

 鬼気迫る口調で白がいい、首だけ振り返る。その口元は厳しく結ばれているが、恐らくぐるぐる泳ぎ捲っているだろう目はサングラスの向こうに隠れて見えない。

「大したことじゃない。ああ、瑣末なことだ。些事だ。毒にも薬にもならねえ。たとえるならば大判焼きの中身はつぶあんかこしあんかの戦争にクリーム派が割り込もうとしたくらいどうでもいいことだ」
「具体的には?」
「……見合い話だーよ」

 隼は白を凝視した。

「…………断るのも面倒くさい相手っているじゃない。会うだけ会ってお断りっていうあれだよ、あれ。むしろ断られるようにっていう……とりあえず巨大パフェ食ってろって言われたからひたすら食ってたよ。休日はなにをって言われりゃ『巨大スイーツ巡り』って答えて、趣味はって聞かれりゃ『大食いレポートを読むこと』って答え、相手の顔もろくに見なかった」
「なのに、よく珈琲牛乳なんて飲もうと思いましたね……それにしても、珍しい。いつも、女には過ぎるほどやさしいのに」
「やめてくんない、ひとを女好きみたいにいうのやめてくんない。ああもう、ちくしょう、お前がそういう顔すると思ったからこっちはドン引き上等、胸焼けウェルカムでひったすらジャンボパフェ攻略してたんだぞ。まずは気軽に挨拶程度ってことでカジュアルレストランだったが、そこで空気読まず裏メニューの十人前パフェをひとりで黙々と平らげる俺の居た堪れなさが分かるかっ、吐くかと思ったわ! むしろダメ押しでトイレに行くべきなのか悩んだよこんちくしょう!!」

 そのときのことを思い出したのか、口元を押さえて沈黙した白に、隼はいざり寄った。
 そっと目元に手をあて、もう片方の手でサングラスを外せば、きろり、と鼈甲飴色の目が隼を見上げる。

「眩しい」

 白は隼の手をつかみ、そのまま目を覆らせる。手の下でやわい皮膚に閉ざされた眼球の形を感じて、隼の指先がぴくりと引き攣った。
 隼は一瞬迷ったが、白の顔を覗きこんだまま、頭を下げる。
 唇が重なった瞬間、白が隼の後頭部を捕らえながら上体を起こし、隼は不自由な体勢で押し倒された。
 下を向く白の顔には髪がかかって影が差しているが、それでも白には眩しいのだろう。眇めた目が潤んでいくのを、離れた唇を惜しみながら隼は見つめた。

「簾、下ろしますか」
「どうせ、もうすぐ日没だろ」
「この家からだと、夕陽ほとんど見えませんからね」
「赤く染まりきる前に山の向こうだからな。ああ、痛え」

 きゅ、と瞑られた白の片目から落ちた涙が、隼の頬を濡らす。もう片方の目から零れる涙は落ちず、ただ白の頬に流れた。
 隼はその涙が無性に舐めたくなって、口付けるふりで白の唇の端を舐める。
 ぱちり、と白の白い睫がまたたいた瞬間、外も中もふっと暗くなる。

「……夕飯、どうします?」
「あとでいい」

 隼が卑猥な声音に喉を震わせれば、白は一気に暗くなった視界など関係ないかのような正確さで、その喉元に噛み付いた。
 ひく、と喉を鳴らしながら、隼は白の背中に両腕を回す。

 日は沈んだばかり、夜はこれからだった。

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