小説
あなたを愛し、あなたを否定します(後)



 緒方紅葉は、愛するひとのためならば、どこまでも自分を道具のように扱えた。それこそ、踏み台のように。
 けれども、それは反対に言えば、道具として問題が出れば躊躇なく捨てられるということでもあり、紅葉は自身が乗られた瞬間に壊れるような踏み台ならば、さっさと始末してしまおうと、なんの迷いもなく考えていたのだ。
 それをよく思わない峰継がどういう手段に出るか、その掻い潜り方。紅葉はできる、と確信していた。
 まさか、こんな形で先手を打って潰されるなどと、思いもよらず。
 ブートニアの意味も、胡蝶蘭の花言葉も、知っていた。知っていたけれど、意味を持たせることなど思いつかず、胸ポケットに咲く胡蝶蘭が、まるで心臓に突きたてられたが如く紅葉の胸を苛んだ。

「ちが……違う、ちがうんです……っ」

 峰継のためにも早く壇上から、学園から立ち去らなければと震える足を叱咤して、紅葉は転げるように壇上から走り出した。



 紅葉がホールから出ていき、戸惑う声がうるさいほどに上がるなか、峰継はひどく冷静に副会長からマイクを奪った。

「あ、あ、以上、生徒会長任期満了。最後に一言告げる。親衛隊一同、今までご苦労――最後のひと仕事、頼んだぞ」

 祐司に目配せひとつ、峰継は走り出す。
 壇上での出来事、去った生徒会長。続く事態にいよいよ混乱が起きようとする瞬間、ぱちぱちと大きな拍手の音が生徒や教師のざわめきを押さえ込んだ。
 両手を打ち鳴らすのは、不自然に顔を伏せた祐司がひとり。
 祐司はいつまでも自身に続く拍手がないので、その奇妙に歪んだ顔を上げた。

「ほら、みんな、ぼくらの会長の晴れ舞台が終わったのに、拍手もなしかい? それでも元親衛隊か、薄情が!!」

 元隊長の一喝に、元隊員たちが弾かれたように手を打ち鳴らした。一人始めれば二人が、二人始まれば四人が、増える拍手はとうとうホールに大喝采を響かせた。
 耳が痛くなるほどの万雷の拍手のなか、祐司は手を鳴らしながら笑った。声を上げて笑った。

(ああ、なんて滑稽な悲喜劇!!)



 怖くて仕方がない。なんということが起きてしまったのか。こんなこと望んでいない。こんなことをしたくて花束を差し出したのではない。
 息を切らしながら駆け込んだ寮の部屋、紅葉はがたがたと震えながら頭を抱えてしゃがみ込む。

「違う、ちがう、ちがうちがう違う! 僕は、ぼくはっ、あなたの邪魔などしたくないのに……っ!!!!」
「なんの邪魔になるっつうんだ、踏み台が」

 本心からの絶叫を、なけなしの理性で押さえつけた掠れ声は、いつの間に後ろへ立っていた峰継に冷酷なほど容赦なく切り捨てられた。
 ひっと悲鳴を上げ、紅葉は尻餅をついたまま後ずさる。それを追い詰めるように、峰継は紅葉へと一歩迫り、目の前で片膝をつく。

「実家には根回し済みだ」

 ひぐ、と潰れたように紅葉の喉が鳴る。
 呆然と峰継を見上げれば、涙に歪む視界のなかでさえ、峰継の不敵な表情が窺えた。

「……なんでそんなことするんですかぁ……あなたのお立場は、そんな、こんな……」
「叔父と手を組んだだけだ」

 その一言で、紅葉は峰継の意図を察した。
 こんな馬鹿なことを仕出かしたが、峰継は有能だ。峰継が継いだ保高の家は、ますます繁栄するだろう。その後、峰継は叔父に、叔父のこどもたちにそっくり譲るつもりなのだ。
 自薦他薦、名家の令嬢たちから妻を娶ることも、その妻とこどもを作り、暖かな家庭を築くことなく、ただ保高のために奔走したあとは、その旨味を他者へと提供する。それで峰継がなにを得るのか。そうまでしてなにが欲しいのか。

「やめてください、やめて、やめてよ、いやだ! あなたは幸せにならなくちゃいけないんだ、あなたは幸せにしあわせにしあわせにだって違うこんなの違うちがうちがう!!!」

 支離滅裂な叫び声は、そのまま紅葉の内心を抉り出しているようだ。
 幸せであるように手伝ってきた自分が、思い描いてきた幸せをズタズタにする。
 そんなことあってはならない。こんなものは認められない。
 頭をぶんぶん振り、耳を塞いで、否定を繰り返す。

「俺の幸せを勝手に決めるな」

 痛いほどの力で肩を掴まれ、紅葉は我に返る。
 荒い呼吸に全身を震わせながら顔を上げれば、目前に峰継の顔がある。

「『絵に描いたような幸せ』に俺を巻き込むな。お前の望む幸せなんて――」
「やめて」
「俺は――」
「いわないで」
「――望んでいない」

 峰継は、紅葉を全否定した。

「あ、あ、あ」
「お前は俺だけを選んでいればよかったんだ。俺だけの幸せを願っていればよかったんだ。なのに、お前はそこに自分を見つけて、それを否定した。俺の幸せを否定した。俺の幸せではなく、不特定多数が思い描く幸せなんぞを押し付けようとした。
 ――裏切り者」

 ぎり、と心臓が軋んだような気がして、紅葉は胸を押さえる。ぐしゃり、と胡蝶蘭が握りつぶされ、青いにおいが立ち込める。

「俺だけを見ていたくせに、お前は逃げた」
「ちが……」
「逃げたんだ」
「だって、だって……」

 突きつけられて、ようやく気付く。
 とても似ていたから、間違えてしまったことに気付けなかった。峰継に血を吐くような顔をさせて言われるまで、目を逸らしていた。
 どうして、紅葉は峰継ではなく、峰継の幸せを優先するようになってしまったのだろう。
 幸せになってほしかった。健やかであってほしかった。峰継が愛しいから。
 峰継ありきの願いが、いつからか峰継の幸せのためにへと目的を変えてしまった。

「だって、ぼくには描けない……あなたの隣にぼくを思い描くことができない……」

 知らないものは、与えられない。

(ああ、そうか……)

 紅葉は理解する。

(ぼくは絶望したんだ)

 保高峰継に尽くせない自分に、どうしようもなく失望し、絶望した。
 自分を勘定に入れないなどと嘘だ。無償の愛などとまやかしだ。
 自分が峰継に幸せを与えたい。
 それこそが、紅葉のほんとうの願いだったのだから。

「なあ、紅葉。俺をしあわせにしてくれ」
「会長……」
「俺にお前をくれ。それだけで、俺はしあわせだから。それが叶わなければ、俺は不幸になるのだから」

 気付いてしまった紅葉にはもう、否定ができない。本来の「峰継のために」を取り戻してしまった紅葉に「それはあなたの幸せにならない」といえない。
 なによりも、峰継は実家に手回しを済ませてしまった。紅葉がいてもいなくても、もうどうにもならない。
 ならば、ならばならば、まだしも――

「どうぞ、緒方紅葉はあなたのものです」

 握り締めた胡蝶蘭を労わるように紅葉は花弁へ口付け、峰継へ差し出した。
 震える紅葉の手ごと受け取る峰継の顔を、紅葉は一生忘れないだろう。

(ぼくはその顔がずっと、見たかった)

 ずれていると、思考が明後日だといわれる紅葉にだって分かる。その幸福そうな顔。

「ぼくは、あなたを幸せにできましたか……」
「ああ、俺はやっと幸せになれたよ、ばか」

 息が詰まるほど抱きしめられた腕の中、紅葉はぼろぼろと涙を流しながら微笑んだ。

「――よかった」
「紅葉」
「これでもう、思い残すことはありません。いつお迎えがいたあああああっ」

 いらん台詞を続けようとした紅葉の頭を、峰継は今までで一番力を入れて叩いた。抱擁はいつしか拘束に変わっていた。

「お前、これからっていうところでなんで満足してんだふざけんじゃねえぞっ」
「だ、だだだって、ぼくの念願叶っちゃいましたもんっ、心残りとかぜんぶすぽーんと……」
「俺の幸せを一瞬で終わらせてんじゃねえよ、このばかっ、大ばかっ!!」

 あんまりな紅葉に峰継は大声で怒鳴り、廊下にまで漏れ聞こえるやりとりに、こっそり様子を見に来た祐司は腹を抱えて蹲る。

「あははははははは!!! さ、さいごまでこれって……っ」

 ばんばん床を叩きながら、祐司は滲んできた涙を乱暴に拭う。

「よかったあ」

 ずっと見てきたから、祐司も願わずにはいられなかった。

「ふたりが幸せになって、よかった」

 呟き、再び噴出した祐司は廊下を笑いながら転がりまわる。
 怒鳴り声と笑い声とが合わさる奇妙な状況だけれど、主役も端役も観客も、誰もがなにも関係ないように、皆がみんな幸せそうな顔をする。
 ならば、これはまさしく正しく――

「ハッピーエンドってやつだよねえ?」

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あきゅろす。
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