小説
七杯目
約束通り、休暇を宣言した四季に、貫之ははとが豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
なにかと働きたがる貫之に文句を言わせないため、仕事の割り振りやら今後の予定などを捲くし立てれば、困惑すら滲ませていた顔が段々苦笑いに変わり、最後には淡い微笑に落ち着いた。
「ありがとう」
鋭い視線ひとつでガタイの良いチンピラを蹴散らしている様からは想像もできないほど穏やかな目をして、貫之は心を零すような声で礼を言った。
あまりにも深い声音に四季こそ面食らい、思わず視線を逸らす。
「別に兄やのためじゃないんだからねっ」
「はいはい、それでもありがとう」
「おい、そこは突っ込めよ。ボケ殺しはきついぞ」
ノリの悪い「兄」にアヒル口を尖らせれば、貫之はほんの僅か高い位置にある四季の頭を撫でて、後ろへ流した髪を崩していく。
「おい、俺まだこの後に仕事があるんだぞ」
「ふふ、あなたなら髪下ろしてても男前よ」
「知ってる」
「あら、かわいくない」
「格好いいからいいんだぞ」
ふふん、と腕を組んで胸を張れば、貫之は頭をぽんぽん、と二度叩いて手を下ろした。昔から、撫でたあとは二回叩いて終えるのが、貫之の癖だった。誰譲りか、四季はよく知っている。
「月曜日に休みっていうのは、なんだか贅沢ね」
「日曜日も祝日もないようなもんだがな」
一瞬、四季の目が遠くへ霞んだことに気づかず、貫之はデスクの上に広げていた書類をクリップでまとめながら言う。その内のいくつが誰かを地獄に落とす切欠になるのか、もはや四季は考えることすらしない。貫之もしない。いまはただ、身内の親しみと労わりを分かち合い、よろこぶだけだ。なんたる皮肉だろう。
「気分の問題よ。で、あなたの方はどうなの?」
「夜になってからだな。それもどうなるかは分からんから、合せようとか考えるなよ」
「……了解」
貫之は仕方ないという顔で頷き、まとめた書類を封筒にいれて内線で呼び出した部下にどこそこへ届けるよう命じた。
四季は脳裏を過ぎった顔に、浮かびかけた謝罪を飲み込む。いまさら過ぎたのだ。
夜の墓参りとはまた、夏には暫くある季節の風とは別にぞくぞくするものを感じないでもないが、それはそれとして四季は昼に貫之が全て整えてしまっただろうから、花すら持たず、身一つで墓地にやってきて墓前に立った。
街灯のおかげで墓石を間違えることもなく、四季は墓誌に刻まれた名前にそっと指を這わせる。
叶薫。
叶の戸籍に入っていないひとの姓を墓誌に叶と刻んだのは、四季の父親の我侭だった。それを四季は少しばかり申し訳ない気持ちになる。
四季がいなければ、あのひとは叶の籍に入れたのだ。
「……いや、わかってるぞ。過ぎる自虐は遠回しな攻撃だよな……ほんとう、あなたはできたひとだった。良妻賢母、大和撫子を地で行くひとだったよなあ……」
分かっている。四季がいなかったとしても、あのひとはそうしなかっただろう。
四季は震えそうになる指を叱咤しながら、そっと滑らせる。
叶綾子。
墓参りとは対象をしぼってするものではないだろうが、この墓前に立つとき、四季は先祖代々などと大雑把な括りに祈ることをしない。貫之もそうだろう。
だが、貫之には告げなかったが、意識的に無意識を貫いていた四季を諭すように、今回は伝言を受けている。
四季は耳鳴りすらしそうな緊張を感じながら、もう一度名前をなぞる。
ある意味で、薫とは対照的なひとだったと聞いているが、四季はその顔すら覚えていない。赤の他人よりも性質が悪いことだと思ったこともあるが、しかし四季はそのひとのことを忘れてはいけないと父親に、なにより薫に言い聞かせられていた。
感謝をしなくてはいけない。感謝をしている。
けれども、たった一つ、たった一つだけ恨ませて欲しいことがある。
「……呼びたかった。水より濃いかもしれねえが、赤ワインよりは薄そうなもんに遠慮なんざ、どうしてしなきゃなんなかったんだ……そんなの、俺らしくないだろうが。いいじゃねえか、なあ、いいって言ってくれよ……なあ」
泣き言か恨み言か、どちらも行く先はなく、冷たい墓石には虚しく響くばかり。
全身が強張るのに力が抜けるような感覚に襲われながら、四季は決して膝をつくことをしなかった。熱くなる目頭から涙を零すこともしなかった。
握り締めた拳をどうにか解けた頃、四季は何事もなかった顔で墓石に背を向ける。
「また、来るぞ」
来たとき同様よどみなく、それ以上に突っ切るような足取りで四季は歩いていく。
(やっぱり、貫之と来なかったのは正解か)
情けない姿を見られたくないのは男の性だ、と四季は内心で嘯くけれど、どうしてだろうか。まるで磁力に引っ張られるように、足が今頃バーに切り替えているだろう店へ向かいたがっている。
今から行けば、丁度客がはけた頃につくだろうか。
具体的に算段までし始めた自分に呆れながら、四季は普段は呼ばない名前を口のなかで転がしてみた。
馴染まぬはずの音がことの他しっくりきて、少しだけ気分が軽くなった。さらに背中を文字通り押すように風が吹き、四季はざあ、と撓る木々の音を聴いて、空を仰ぐように振返る。
月の光りに淡く照らされた花びらが、夜空にきらきらと輝き、それを見て四季はようやく春が盛りなのだと実感した。
「ああ、桜が散っちまう前に……」
菫との約束も急がなければ、と思いながら、四季は携帯電話を取り出していた。
少しばかり時間が遅いけれど、気持ちが急いてしまう。
電話帳から呼び出した番号にかけてしばらく、コール音が続いてようやく相手が応答した。こどもっぽい口調で文句を言ってくる。どうやら寝入りばなだったらしい。
「悪い。急ぎの仕事頼みたいんだ。あ? いや、違う。洋服っつーか……制服? カマーエプロンとか……」
不満そうだった相手は、四季が詳しく説明していくうちに少しだけ興味を持ったらしい。わざとらしく「へー、へー、へー!」と流していた声が、段々と関心を挟むようになり、四季のアイディアに「それなら……」と具体案を出してくる。
どうやら請けてもらえそうだ、と四季が安心したところで、相手が突然変わる。
「おい、俺通さないで仕事持ってくんな。気が向けばなんでもやりたがる馬鹿の調整すんの誰だと思ってんだ」
柄の悪い声の主を、四季は知っている。つい今さっきまで会話していた相手の相棒だ。
「そりゃ悪かったぞ」
「前みたいな無茶な注文したんじゃねえだろうな」
「全部おまかせで頼んだらやらかしたのそっちじゃねえか……」
「この馬鹿におまかせとかやりたい放題するに決まってんだろ。ただでさえ仕事っつう制限に不満もってる我侭野郎だっつうのに……」
「明らかに俺悪くねえだろ……とりあえず、今回は……」
相手が変わるまでの間に大体決まった内容を話せば、どうやら許容内だったらしい。期限など具体的に進めれば、少し唸っていたが最終的には頷いた。
「そういうのに刺すの久々だからな……おい、はりきり過ぎんだよ馬鹿」
呆れた声のあとに「馬鹿じゃねえもん」と不貞腐れたように言い返す声が聞こえ、四季は喉の奥で笑う。
「んじゃ、よろしく頼むぞ」
「ああ……っと、変わるわ……」
「っもしもし、しいちゃん?」
「ああ、急な話で悪いな。頼む」
「おーけぃ、おーけぃ! まかせろし!」
「おう、まかせたぞ」
こどものような言動だが、相手の腕の確かさを知っている四季は不安など欠片もなく通話を終えた。
沈んでいた気分は既に上向き、四季は駐車場へと向かう。
入り組んだ場所にある店へ行くのに、車は使えない。
四季が運転する車は、彼の住居である久巳組本家へとまっすぐに向かった。
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