小説
眠れぬ夜




 沖田家の風呂が壊れたらしい。
 世間話の一環として告げられた言葉に、礼一は目を瞬かせた。
「え、じゃあ、お風呂どうするの? 近く銭湯とかスパってあったっけ?」
「長くて三日で直るそうなので、とりあえずはシャワーで凌ごうかと」
「駄目だよ!」

 とんでもないことを言うさなえに、礼一は仰天しながら却下を叫ぶ。
 秋も半ば、朝晩冷え込むこの季節にシャワーだけなんて、さなえが風邪をひいてしまう。

「そうは言われても……」
「お風呂だったら、ほら、うちで入ればいいじゃない!」

 内心ではとんでもないことを言った、と焦る礼一だが、表ではさも名案を思いついた、という体を保つ。

「いや、それでも行き来する間に冷えますよ。一々着替えるのも面倒だし」
「なら泊まればいいじゃない!」

 言った直後、礼一は硬直した。向かいで、さなえも硬直している。

「……いいんですか?」

 僅かな沈黙のあと、さなえが口を開く。唇が、奇妙に重そうなのが不思議だった。

「もちろん!」

 自分が言った言葉を撤回できるはずもなく、礼一は冷や汗を押し隠し、笑顔で頷いた。


 着替えその他をとってくると言ったさなえが出て行った部屋で、礼一は頭を抱えた。
 ひととの距離を保ちすぎるさなえは、これだけ長く礼一の部屋に出入りしているにもかかわらず、私物を置いていくことはもちろん、持ってくることすら稀だ。
 当然、持ち主、さなえ自身が礼一の部屋に置きっぱなし、泊まることなど皆無だったわけで……。

「お風呂上りとかで狼狽するほど若くないもん」

 年甲斐もない口調で断じるが、弱弱しい声に説得力はない。
 相手は十五歳の少年。そんなこどもが全裸で自分のテリトリーにいるくらい、なんだというのか。

「あ、布団どうしよう」

 他人をこの部屋に泊める気など皆無だった礼一は、ゲスト用の布団など用意していない。
 まして、さなえと同じベッドで寝るなどと――

「竹中さん?」
「ひいっごめんなさい!」
「え?」
「え」

 やましい想像などしていませんとは口走らなかったものの、十分怪しい言動に、いつの間にか戻ってきていたさなえの顔が怪訝になる。

「あ、いやなんでもない。うん、お風呂、さなえ君が沸かしてくれてあるから、先にどうぞ」
「家主差し置いて入れませんよ」

 この常識と良識あり過ぎる子を、どうしたらいいだろう。
 後か先か、実は非常に絶妙な問題なのだ。
 礼一が先に入った場合、すでにゆったり寝る体勢でさなえを待つ。湯上りで無防備なさなえがやってくる。あとはベッドに行くだけ。お膳立て終了としか思えない。
 礼一が後に入った場合、さなえが使った湯だなーとか、今日のさなえは自分と同じシャンプーで同じ匂いなんだろうなーとか色々考えた挙句に、待っているのはしっとり湯上りさなえである。
 思わず無表情になった礼一は、こっそりさなえの姿を眺める。
 背は高い。ここ最近でまた伸びたようだ。礼一も高い方だが、将来は並ぶほどになるかもしれない。
 すらり、としたシルエットに、足元は意外と引き締まっている。
 顔立ちは鋭いが、表情によっては愛嬌があって、見た目から誤解される通りの不良なら「アニキ」とでも呼ばれるようになりそうな顔だ。
 かわいい、わけではない。可愛い容姿はしていない。中身だって、礼儀正しいがドライで、真面目過ぎるところは可愛げがない、というひともいるだろう。
 さなえは可愛い存在ではない。格好いいとか、男前と称されるべきだ。
 しかし、礼一にはかわいくてかわいくて、仕方がないのだ。
 それはもう、様々な表情を自分の手で引き出してやりたくなるほど。

「竹中さん?」
「っん?」
「……ぼうっとしてましたよ」
「あ、ああ大丈夫! うん、じゃあお言葉に甘えて先にお風呂いただくね」

 いつの間にかさなえに顔を覗き込まれていて、礼一は大きく仰け反った。
 逃げるように浴室へ向かい、深いため息をつく。

「……ああ、ベッド、さなえ君が遠慮するかもしれないから、ソファを先に占領しとこう。ベッドどうぞとかメモ書いておけばいーや」

 棒読みで入浴後の予定をたてて、礼一は冷たいシャワーを浴びにいった。



「竹中さん、お風呂ありがとうございま……竹中さん?」

 ソファにタオルケットを持ち込んで丸まりながら、礼一は狸寝入りに徹した。
 返事がないので近くに寄ってきたさなえの気配に、心臓がばくばくする。

「……ベッド使えって……家主がソファで寝ちゃ駄目じゃないっすか」

 それは君をソファで寝かせる気がないのと、ベッドで仲良く一緒に寝たらのっぴきならない事態を招きかねないからだよ。
 内心で答えつつ、あくまで礼一は狸寝入りを続けるが、さなえは礼一の理性に思わぬ攻撃をした。
 顔にかかっていた髪を払ってくれたのか、僅かに布のすれる感触と、湯上り特有の匂い。不意打ちのそれに息をつめそうになる。
 必死に安らかな寝息を演じていれば、さなえの気配が遠ざかり、部屋の明かりが消える。
 ほっとしたのもつかの間、また気配が近づき小さな吐息ほどの呟きが、必要以上に神経を張り詰めている礼一の耳に届く。

「おやすみなさい……礼一さん」

 頭が真っ白になった。
 遠ざかる気配を追うこともできず、礼一は思わず目を見開く。
 耳鳴りがする。頭ががんがんと揺れる。
 ただ、名前を呼ばれただけだ。これだけ親密な交流を繰り返しているのだ。名前を呼ばれたくらいでなんだというのか。
 なぜ、なぜ礼一が眠っていると判断したときになって、礼一の名前を呼んだのか。
 昼間だったら、喜びを露に抱きつくというパフォーマンスで、湧き上がる衝動を誤魔化せるが、こんな夜に、こんな息を潜める時間になんてこと。

(さなえ)

 たった三文字。
 礼一は震える唇から音を発すことなく、さなえの名を紡ぐ。
 全身がかっと熱くなり、耳鳴りは酷くなる。
 ああ、どうしよう。どうしたらいい。

(君が好きだ)

 ぎゅっと目を瞑り、礼一はタオルケットを頭まで被った。
 早く朝になれ。
 祈っても、いまは午前様にもなっていない。
 礼一の長い夜の始まりである。


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あきゅろす。
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