小説
一杯目



 時計が昼過ぎを示す頃、四季は向かい合っていたPCから目を離し、目薬へと手を伸ばした。清涼度の高い目薬は、既にひんやりだと沁みるだとかを通り越し、じわりと熱く感じる。

「老眼の前に近眼になるぞ……」

 幾らか疲れを滲ませた声音は、ここ最近の忙しさが顕著に現れていて、四季はげっそりと息を吐く。
 一息入れようと肩を回し、ばきぼきと鳴る体に物悲しさを覚えているとドアが四回、丁寧に叩かれた。
 許可の声に入室してきたのは、首元にすっきり流れる赤味の強い黒髪と、カジュアルスーツが若々しい中性的な顔立ちをした四季の右腕、久巳組本部長園江貫之だった。
 塗り盆片手にドアを閉めた貫之は、だらりと姿勢悪く椅子の背凭れに体を預ける四季を見て、くす、と笑う。

「疲れてるのね」
「そりゃ疲れるぞ。日が昇ってりゃデスクワーク、月が昇ってりゃ飲み会、寝られるのは月も沈んで太陽が昇るまでの少しだけ。俺はヤクザの組長だったはずだが、いつ社畜へ転職したんだ……」
「飲み会程度でなに言ってんの。社畜だったらそれすらないわよ」

 カウンターテナーの滑らかな声は、しかし女性口調だ。四季はとうの昔に聞き慣れてしまった貫之の話し言葉に思うこともなく、ただデスクに置かれた湯飲みに手を伸ばす。

「美味い」
「それはよかった」
「でも珈琲が飲みたいんだが……」

 貫之は肩を竦める。

「ほんとにお気に入りなのね。殆ど片付いてるからわたしは構わないわよ?」
「俺はお前がどうして本部長なんて肩書きでそこまで余裕があるのか、是非ともご教授願いたいぞ……」
「わたし、使える人間育てるの得意なのよ」

 四季は失笑する。
 お茶を零さないように湯のみをデスクに置きながら肩を震わせる四季に、貫之もくすくす笑う。

「ああ、そうだな。お前の人材育成能力は凄まじいぞ。
 世襲制なんざ適用したら確実に荒れるヤクザ世界で、それを為せるほどだからな」

 デスクに片肘ついて、四季は貫之の享保雛に似た顔を見上げる。
 四十路に見えない四季よりもほんの少し年上に見える貫之は、その外見から舐めてかかる輩をときにあしらい、ときに叩き潰し、ときに磨り減ってなくなるまで使い倒して現在の地位にいる。
 血を吐くような思いは数え切れないほどした、血を吐かせるようなことも数え切れないほどした。ヤクザを憎んで怨んで、上げたかっただろう叫喚は唇を噛み切って飲み込み、ひたすら進んできた男。
 久巳組の叶四季に誰より近しく、誰より共にいる男。
 一時、若頭にと目されていた貫之は、己の能力はそちらに向かない、と固辞して本部長の座にいる。そして言葉通り最大限に発揮された能力で、久巳組の勢力拡大の一端を担うのだ。
 久巳組の財源、その要になる人物を久巳組に繋ぎとめられるよう画策したのも、貫之だった。
 四季は振り返った過去と目の前の貫之とを比べて、随分と時間が経ったものだ、と懐古する。

「そういや、今度の月命日どうすんだ?」
「先月も先々月もいけなかったのよね……祥月命日はかろうじて欠かさないけど……」

 余裕があるからといって、その余裕でできることとできないことがある。
 墓参りに赴くには、時間と距離が邪魔をした。
 憂い顔をする貫之に、四季は苦笑いする。

「行ってこいよ」
「馬鹿いわないで。公私混同する気はないの」
「公私混同……これほどお前に似合わない言葉もないぞ……。
 とにかく、たまには休んでもいいいだろうが。その分くらい負ってやるぞ。藤代が」
「……そこはあんたじゃないのね」
「これも次代のためだ。なんてやさしい組長なんだろうな、涙が出そうだぞ」
「藤代は違う意味で泣くでしょうよ」

 まったく、と呆れたように言いながら、貫之はうれしそうだった。

「気持ちだけもらっておくわ。わたしだけ行っても、片手落ちじゃない」
「お前だけでもあのひとは喜ぶだろうけどな。ま、兄やが気兼ねしないで済むよう、俺もがんばるとするか」
「あら、昔みたいに『にーに』って呼んでもいいのよ?」
「今はどっちかつーと『ねーね』だろ」

 べし、と貫之は四季の頭を叩いた。立場を思えば考えられないような行動も、ふたりの親密さの現れだ。

「ひとをあのクソガキと同類みたいに言わないでちょうだい」
「大多数はその口調だけでクソ犬とお仲間だと思うぞ……あーあ、なんだって犬まで『久巳組暗黒時代』に一役買ってんだ」
「犬のことまでひとの所為にしないでほしいわよねー」
「ところで」
「んー?」
「茶ぁしばきにきたわけじゃねえだろ。なんかあったか?」

 ほの温くなった湯のみを持ち上げれば、中身はそれ以上に冷めていて、四季はひと息に半分ほど飲み干した。

「ああ、大したことあるようでないようなことがあったのよ」
「なんだそれ」
「菫ちゃんがあんたご贔屓のお店に行っただけ」

 四季は咽た。
 気管に入った上質茶葉の緑茶に咳き込みながら、それでも必死に湯飲みを落とさないようにして、貫之を見上げれば「あらあら」と他人事そのものの呟きがひとつ。

「な、なんで菫が」
「尾崎からの報告だけど、少し前からひとりで出かける計画はしてたみたいね。そこがテッセンなのは偶然だと思うけど」
「ひとりっ? 誰かついていってねえのか」
「まさか。でも、一緒に、じゃないのよね。いっそ軟禁でもさせてくれたら安全だけはばっちり保障できるんだけどね……」
「あの兄貴がうちを潰しにかかるぞ……だあああ、あの店けっこう入り組んだ場所にあるんだぞ」

 頭を抱えながら四季は勢いよく立ち上がる。

「マスター鋭いからな……へたな奴だとすぐこっちの人間だって気付くぞ」
「それで、自らお迎えに行くの? 公私混同ねえ」
「だからお前には言われたくないぞ。というか、この場合は公私混同じゃなくて一石二鳥というか一挙両得っつうんだ」
「知ってるわ。教えたのわたしだもの」

 年上の顔でわらうひとを見て、四季は一瞬口を噤み、ポールハンガーにかけていたスーツの上着を羽織った。

「そういう顔、あのひとによく似てるぞ。
 菫と一緒だから戻るのは遅くなるかもしれねえが、お前が丸一日休めるよう約束してやる」

 颯爽と執務室を出て行く四季の背中を見送った貫之の呆けたような顔を、四季は見なくても分かっていた。
 三十年以上の付き合いは伊達ではないのだ。

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あきゅろす。
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