小説
二杯目



 四季が来店しなくなって一週間。なんとも心安らかな日々を噛み締める静馬である。
 いつぞやのように、四季の影をちらつかせる客もいない、ヤクザと全く係わり合いのないテッセンの様子に、これこそが正しい姿だ、と感慨深く頷く。

 バーに残っていた最後の客も帰り、時計を見れば閉店間近。もう札をかけるか、と些か商売気にかけることを考えながら、静馬はカウンターを出る。
 瞬間、ばん、と大きな音をたてて、ドアが開いた。
 いつぞやを思わせる状況に、四季の悪ふざけを予想した静馬だが、転がり込んできたのは四季ではなかった。

「た、たすけてくれ……」

 か細い声で助けを求め、立ち尽くす静馬に向かってよろよろと腕を伸ばした男は、生臭い血に塗れていた。

「……救急車」

 一部が停滞したような頭で、とりあえずは、と電話をとりに向かおうとすれば、血まみれで這い蹲ってる様からは想像もできないような力で足を掴まれ、静馬は怪訝な顔で振り向いた。

「だめ、だ……けい、さつも……」
「どうしろと……」

 男は応えず、ひゅうひゅうと荒い息を吐いている。このまま押し問答を繰り返していたら、男は店内で死ぬかもしれない。そんな事態だけは嫌だった。
 静馬はいっそ泣きたい気持ちになりながら、男の手を外し、急いでドアに向かう。男がなにか呻いていた気がするものの、これだけはしておきたかった。
 ドアを開ければ外は妙な騒がしさに包まれていて、本格的に厄介なことが起きていると察せざるを得ない。
 静馬は誰かに見咎められる前に、ドアにかかるプレートをひっくり返した。
 さっとドアを閉めて、鍵をかける。振り返れば、床に転がる男がいまにも死にそうな体。なぜ、警察に突き出さなかったのか。今更過ぎる後悔に静馬は顔を顰めた。

(どうすっかな……)

 静馬は応急処置の方法など知らない。かと言って、男を放置して店内で死なれたらたまったものではない。こんな厄介ごとが転がり込んでくるなんて、今日は厄日ではないか。

「……厄日」

 静馬の脳裏に厄介者の憎たらしい顔が浮かぶ。
 足早にカウンターの奥へ引っ込み、棚からしまっておいた手帳を取り出す。どんなに押し付けられても静馬が頑なに覚えようとしなかった電話番号が、もしかすれば載っているかもしれない。
 ひとの手帳を覗き見ることに、持ち主が持ち主であるので罪悪感はなかった。
 高級そうな皮製の手帳を捲れば、それはほぼ新品だったらしく、殆どが無記入。舌打ちしそうになった瞬間、手帳からひらり、と落ちたのは一枚の紙切れだった。咄嗟に拾い上げた静馬の額に青筋が浮かぶ。
「連絡待ってるぞ☆」などと可愛らしいピンクの丸文字で副えられた一言の下に、十一桁の数字が並んでいる。
 静馬は尻ポケットにいれていた携帯電話を取り出し、その番号を押した。



 やってきた男は、常のふざけた表情も、電話に出た直後のような浮かれた様子もなく、ただ苛立ちや怒り、激憤を噛み砕いて味わっているかのような顔で、床に転がった男を見下ろした。

「手当てしたのか」
「だから、態々やり方訊いたんだろうが」
「しなくてもいーのによ」

 静かな声音で呟き、四季は背後に立っていた作業服姿の男達に手を振る。彼らはさっと男を抱え上げた。

「ひっ、あ、あんたら……っ」
「どーも、叶四季です。よろしく」

 酷く怯えた男に向かい、四季は親しげに片手を上げた。途端、男の顔が情けないものに変わるが、そこには先ほどまでの闇雲に怯える気配はない。

「わ、悪いっ、ちょっとミスって……」
「ここで話すことじゃあねえよなあ。連れて行け」

 男を遮り命令する四季の言葉で、あっという間にテッセンの人口密度は減った。残るのは僅かな血臭と、正に人形のような顔の四季と店主の静馬だけだ。

「悪いな、マスター。身内って認めたくはないが、そんなんが迷惑かけた」
「まったくだよ、くそが。こちとら善良な一般市民が経営するカフェ兼バーであって、ヤクザに上納金渡してどうこうしてるような場所じゃねえんだよ。厄介ごとを放りこむんじゃねえ」
「まったくの偶然だって言いたいんだが、まあ俺気に入りってことで勘違いしたのかもしんねえなあ……」

 顔を片手で覆って、四季はゆるゆると首を振る。まるで弱弱しい様子など初めて見た静馬は、しかし、四季に「気にするな」などと言ってやる気はなく、血の残る床を見て顔を顰める。

「クリーニングしなおしじゃねえか」
「あー……明日は休みだよな」
「火曜日だからな」
「悪い。すぐに手配する。詫びもしっかりいれる」
「二度と顔出さねえのがなによりの詫びなんだがな」

 四季はなにも言い返さないが、口をへの字に曲げていた。

「分かってんだよ、それくらい」

 まるきり拗ねたこどものような口調で、四季は呟く。

「……騒がせて、悪かったぞ」

 静馬の顔を見ることなく、四季は裏口へ向かった。
 静まり返った店内で、静馬は舌打ちする。
 厄介ごとは大嫌いなのだ。面倒なことも大嫌いなのだ。平穏で、代わり映えのしない日常がなにより好きで、こんな風に騒がしい夜は無性に腹立たしい。

「どうしようもねえことだろうが、くそったれ」

 吐き捨てる声すら億劫で、静馬はスツールに乱暴に腰掛けると、しばらくの間動けなかった。

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あきゅろす。
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