小説
16ラウンド



 隼は不安なことがある。
 つくもという男に一瞬で憧れ、心酔し、自分の上に望み、それを叶えたのだけれど、いつかつくもがいなくなってしまうのではないかという不安だ。
 総長、と勝手に押し上げた肩書きで呼んでも、つくもは返事をしてくれる。
 連絡をしても無視されない。どころか、予定に問題がなければ会ってくれさえした。
 けれども、隼はつくものフルネームすら知らない。
 簡単に変更できる連絡先しか知らず、つくもは拒絶こそしないが、邪険にする言動からbelovedを好ましく思っていないのは明らかだ。
 恨まれていてもおかしくない。
 厭われていてもおかしくない。

(なのに、なんであんた俺たちに付き合ってくれんのかなあ)

 それは、いなくなるからじゃないか、なんて隼は想像してしまう。
 いまだけだから、付き合ってくれているんじゃないか、と。
 こどもの飯事に、暇な大人が参加するように、やることができればすぐに席を立ってしまうような、そういう存在なんじゃないか、と隼は思う。
 ほんとうはメールも電話も怖いのだ。
 いつ「この電話番号は」なんて機械的なアナウンスが流れるんじゃないかと気が気じゃない。
 なんて無様なんだろうか。
 だが、無様を晒すことで、必死に追い縋ることでつくもが引き止められるなら、きっと隼はそのとき、今まで足蹴にしてきた女や男、あらゆる人間と同じ行動をするだろう。
 その無意味さを誰より分かっていながら。

(あーあ……べた惚れっていいことじゃねえなあ)

 自分はこんなにも臆病な人間だっただろうか。隼は自嘲せずにはいられない。

 かちん。

 小さな音に、隼ははっと我に返る。
 音の方へ目をやれば、つくもがフォークを皿に置いたところだった。
 崩れやすく、こぼれやすいパイだが、つくもの所作はきれいで、ぼろぼろとみっともなく欠片を落とすこともなく食べ終えたようだ。ほんとうに、やることなすことギャップがあるというか、わけがわからない。

「美味かった」
「よかったです」
「美味しいもの、というのは素晴らしいな。なにを食べても同じ、モノの良し悪しが分からない輩は確実に人生を損している。ああ、それは愉しみという意味でも、ちょっとしたことで知識を披露できないという部分でも――……厭な奴に感化されてんな」

 うっそりと笑った直後、つくもの眉は一瞬寄った。
 厭な奴、とは誰だろうか。
 訊いてみたかったけれど、独り言のような口調で零されたものを態々拾うのも憚られ、隼は珈琲をひと口飲んでやり過ごす。
 なにより、もっと訊きたいことが別にあった。

「総長」
「……なんだい」

 頬杖をついて、訊きたくないとばかりの声音だけれど、訊いてもいいのだろう。
 つくもは隼に遠慮する必要などない。本気で厭えば、それをそのまま告げて強制終了させることができるのだから。

「総長は、ずっと総長でいてくれますよね」

 どこにも行きませんよね。

 疑問符をつけることすらできなかった。
 頷くだけでもいい。いっそ何も言わなくてもいい。否定をされないのであれば、肯定でなくてもいい。
 どうか、期待だけは摘まないで欲しかった。
 けれど、つくもはそんなにやさしくもなければ、酷いひとでもないのだ、と隼は思い知る。
 細く吐かれた息はため息か、つくもは片手を上げて店員を呼んだ。

「すみません『ブルームーン』ください」

 がち、と隼が持っていたカップが乱暴にソーサーの上に置かれる。
 いっそ泣いてしまいたかった。
 それなのに、隼の顔は歪な笑みをつくるのだ。
 鏡を見なくても分かる。
 垂れ下がった眉と震える口角と。笑顔と呼ぶのも烏滸がましい、酷く情けない顔をしているんだろう。

(やっぱり、なあ……)

 そんなわけがなかった。
 続くわけがなかった。
 夢を見過ぎていた。
 わかっていたけれど、実感するのは辛かった。
 ふっと力が抜けたように、たとえば二十一グラムのなにかが消えてしまったように項垂れる隼を見て、つくもは舌打ちをする。
 まるで男女の修羅場だ。
 これが、こんなものがほんとうにそうならば、店員の目にはさぞかし滑稽に写るだろうが、できた社員教育の賜物か、店員は注文を繰り返すとなんでもないように遠ざかる。
 つくもはそれを見送ってから口を開いた。

「お前さんはあれか、俺にbelovedをそのままヤクザ組織にしてそこの社長にでもなれと?」
「……は」

 隼が緩みそうになる涙腺と戦っていることも知らず、つくもは心底厭そうに言う。その内容に、隼はぽかん、とした。

「大体だ。族だのヤンキーだの若気の至りで黒歴史確定なもんをネバーライフにしろと? お断りだヴァカヤロウ。
 お前らもどうせ高校卒業したら解散なりなんなりの予定だったんだろうが。実際、お前は俺を総長に、代変わりを果たしたよな? だっつーのに、俺だけ残留しろと? ふざけんのも大概にしろ。てきとうな時期にてきとうな奴に押し付けるわ。
 いいか? 時間は経っていく。みんな年をとっていく。変化しないものはありえない。誰にも例外はない。
 ずっと総長でいてくれなんてのはな……」
「お待たせしました」
「あ、あざーっす」

 とん、とテーブルに置かれたグラデーションの美しい薄紫のカクテルのグラスを、つくも男にしては白い指先でぴん、と弾く。

「――できない相談なんだよ」

 その相談を呑む気はないというように、つくもはグラスを隼の前へ押しやった。
 テーブルの真ん中よりやや自分側にあるグラスを呆然と見下ろし、次第にその輪郭があやふやになっていくのをとめられないまま、隼は唇を歪めた。一瞬送れて、口端にやけにしょっぱいものが落ちる。

「総長……」
「なんだね。ってか男の子が泣くんじゃないよ。泣くなら財布落としたときくらいにしとけ」
「総長はやさしーですね」
「そいつぁどうも」

 隼は震える手を伸ばし、グラスをとる。

「総長」
「あ?」

 ひと口飲んだブルームーンは少しだけしょっぱい。

「俺が高校卒業するまで総長でいてくださいね」

 飲み干したグラスをとん、と置くのと同時、つくもは厭そうな顔をしたけれど、拒否も否定も言葉にすることはなかった。
 それに安心した隼を裏切るように、二日後、つくもは「忙しくなるから連絡控える。お前も控えろ」というメールをよこし、唯一の連絡先である携帯電話から電源が切られる。

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あきゅろす。
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