小説
11ラウンド



 前日夕方まで寝て過ごした白は「こんな時間なら起きててもやることねーわ」と軽い食事をとって歯を磨いた後、再び布団に帰っていった。そのおかげが、白が再び目を覚ましたとき、空は薄暗く、しかし季節柄夜明けというには時間が経っていた。

「……俺は散歩が日課のじじいか」

 朝露まとって帰宅しろとでもいうのか。

「よろしい、上等だ」

 布団の中でうだうだごろごろしていたとは思えない俊敏な動きで布団を蹴り上げると、白はバッと縞々パジャマを脱ぎ捨てた。

「さーて、シャワー浴びるとするか」

 白の白髪はストレートだが癖がつきやすいので、毎朝のシャワーが欠かせないのだ。もっとも、白は無精者なので面倒くさいときは帽子でごまかすのだが。



 早朝は指先が痛くなるほど気温が低いため、白はきっちりと指先まで覆うムートン手袋を装備して、相変わらず白いカシミヤのロングトレンチコートでぬっくぬくである。一眼レンズのサングラスとあわせてもれなく職質を狙っているとしか思えない。
 白は下見こそしたが、未だに慣れぬ土地に馴染もうと、あてどもなく歩いている。もちろん、迷子になって帰れなくなるのは困るので、携帯電話は持っているし、辻は曲がらず、道なりに進んでいるという意味が分からないという歩き方だ。この男は目的をもって行動したとしても、行動が目的と一致しているかといえばそうでもない。基本的に「わけがわからねえ」仕様なのだ。

「あー、息が白い。息が白い。南極だったか北極じゃ塵ねえから白くなんねえんだよな。つまり白い吐息は穢れた都会でだけ見れるというレア現象。腹は黒いが息は白い。俺は清廉潔白だけど」

 寒さのせいか独り言の数も多く、いつの間にか土手の上を歩き出した白は、霜の降りた斜面に口笛を吹きつつ、日課のランニングに勤しむ寒々しい格好の老若男女に軟弱な格好を嘲られ、すれ違いざまに「なんでお前ここにいるの?」という視線を向けられてびくんびくんと身をちじこまらせてアウェーを楽しんだ。ランナーやウォーカーにとって土手は支配圏、いくらヤクザかマフィアという見た目であっても、寒さに耐えられず高級素材で身を包んだ白など脆弱な小鳥にも劣る存在だった。

(ランナーつえええ!)

 弱い虫を見るような目で見られたのなんて久しぶり、と白は寒さからではないぞくぞくした感覚に背中を震わせた。

「そうちょー?」

 そこへ、朝早くで頭が起きていない、というわけでもなく間延びした声が、一部の皆さんしか使わない呼称で白に呼びかけた。
 白が開けてはいけない扉に手を掛けかかっていたと知っているのか、知らないのか、白が振り返ればラフなパーカー姿の千鳥が驚いた顔をして立っていた。会った時はどちらもつけていたピンのない薄茶の髪が、風に揺れている。

「可及的速やかに今見たことを忘れろ」
「は?」
「……どこから見ていた」
「え、総長がなんか突っ立って震えてるとこだけど……寒いの?」

 どうやら白が妙な世界に片足を突っ込みかけていたとは、思いも寄らないらしい。常識的に考えれば当たり前である。真冬に震えている人間を見て「あのひとマゾっ気疼かせてるのかしら」などと考える方がおかしい。

「……ちど……そういや苗字聞いてな……」
「ああ、うん。千鳥でいいから。千鳥って呼んでね」

 白はなんとか誤魔化そうと口を開くが、ふと千鳥の苗字を聞いていないことを思い出す。Hortensiaで聞いた名前は多かったが、白は全て覚えている自信がある。しかし、多くの顔と名前を記憶のなかで組み合わせ一致していくなか、千鳥の苗字部分だけは空白だった。まあ、白自身も結局「つくも」としか名乗っていないのだが。
 なにゆえ、と思いながら呟けば、千鳥の早口が白の語尾をかき消した。

「即名前呼びをしろとか俺はそこまで距離なしじゃ……」
「千鳥だから。千鳥ちゃん。ほーらかわいいデショ」

 距離なしどころか、容姿によって自動的に他者との間に城壁が築かれている白の防衛線を軽々突破するように、千鳥はまたしても早口で遮った。
 ひゅう、と吹いた風が白の髪をひと房、あほ毛のように揺らしていく。
 ひょいんひょいん揺れる髪を無造作に押さえつけながら、白は「千鳥チャン」と低い声で呼びかける。
「お前ほんとうにチャン付けで呼ばれて後悔しないのか」という裏の声が滲む呼びかけだったが、千鳥は「うん、なあに?」と華やかな笑顔で応えてみせた。白の敗北だった。

「いや、うん、なんでもねーわ……」
「そ? ところで、こんな早くからどーしたの?」
「……俺が土手にいるのがそんなに不思議か」
「うん」
「……ちょっとトレーニングに」
「その格好で?」

 白は沈黙した。やはり、傍目にも場違い甚だしいらしい。

「まあいいや。ねえねえ、そうちょー。トレーニングすんなら手伝ってよ。ってか、総長のトレーニングってなに。それ以上どう鍛えるの」

 こいつなんでこんなにグイグイ押してくるんだろう、と思いながら、白は口から出たその場限りの言葉を回収するべく、それらしい言葉をなんとかひねり出す。

「継続は、力だ」
「なにを継続させてんのさ」
「……筋肉は動かしておかないと、いざというときに動かない」
「あんだけ動けりゃ十分じゃない?」
「ああいう動きで使う筋肉だけの話じゃない」
「……具体的に?」

 なぜそんなに食いつくのか理解できないまま、白は具体的な説明が思いつかず、今度はそれっぽい行動をひねり出した。
 五メートルほど空いていた千鳥との距離を、一瞬で埋めたのだ。
 千鳥は突然目の前に立った白にぱちり、とまばたきをして、それから「え、ええっ」と声を上げた。

「総長いまなにしたのっ?」
「膝抜いて二歩分を一瞬で移動、これを無拍子でやった」
「はい?」
「縮地法リスペクトしながら、お前の知覚が及ばないところで動いた」

 千鳥は秀麗な顔を混乱に顰め「え、え?」と声をもらしながら、こめかみに手をやった。

「縮地って、漫画とかで出てくる……」
「漫画ほど大げさでなけりゃ、膝抜きだの二歩一撃だの普通にあるぞ」
「むびょうしってなに」
「事前動作はもちろん、呼吸だのなんだのを相手に感知させずに、行わずに動くやつ。ちなみになんかうろ覚え過ぎて多分どれも正しくない。考えるな、考える奴は参考書でも買ってろ。高校生男子がその辺買うと『あらあら』って目で見られること請け合いだがな」
「……ちょっとやってみて」

 白は埋めた距離を再び開けた。
 先ほどとは違い一瞬で、というよりもいつのまに、という動きで、確かに目で見ていたはずなのに、行動前と結果の間に空白があるとしか思えず、千鳥はとうとう頭を抱えた。

「……そうちょう、やっぱどっかで訓練受けたんでしょ」
「山行ったときに、なんかそこで住んでた爺さんと気配殺しを競ってるうちに弟子みたいになってただけだ」

 野生動物すら騙し果せたところだったので、突然「若いのに大したものだ」と背後で呟かれたときは愕然としたものだった。白は今でもあの老人を妖怪だと思っている。

「総長ってほんと何者だよ……」

 乾いた笑いとともに呟く千鳥の声は、山での日々に思いを馳せる白に届かなかった。

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