小説
十八話



 美由の折れた片手を見て、優は困ったように眉を下げた。

「病院へ行こうか」
「……どうして?」

 雨粒が落ちるようにぽつりとした呟き。
 決して優の言葉に対する返事ではないそれに、優は優しい兄の手付きで美由の頭を撫でる。

「兄さん、悲しんでいたじゃない。落ち込んでいたじゃない。
 兄さんが幸せならそれでいいの。
 兄さんがあたしを選んでくれないのは寂しいわ。ほんとうは兄さんが欲しくてほしくて堪らない。誰にも兄さんを渡したくないの。でも、兄さんが笑ってくれるならそれでもいいわ。
 これは兄さんを不幸にするわ。だって、あのクソ犬を、兄さんの大事な流宇を殺そうとしたのよ。兄さん悲しいでしょう? 兄さん辛いでしょう? だから、あたしが殺してあげるわ。
 兄さんはなにもしなくていい。兄さんはただ笑ってくれていればそれでいい。兄さんは……兄さんが……」

 どれだけ間違っていても。
 どれだけ気が狂っていても。
 美由はいつだって。

「兄さんが幸せでいてくれないと、あたしが嫌なのよ」

 揺れる片手。
 優の幸福のためならば、優の幸福を守るためならば、優の幸福を存続させるためならば、自らがどれだけの傷を負おうとも構わない。どれだけの泥を被ろうとも構わない。
 優にはきれいな場所にいてほしい。
 そのために自分は汚泥に沈んでも構わない。
 優にはあたたかな場所へいてほしい。
 そのために自分は凍え死のうとも構わない。
 優には光をいっぱいに降らせてあげたい。
 そのために自分が暗闇に蹲っても。

「ばかな子、愛しい子、わたしの弟」

 優の両腕が美由を包む。

「いや、ばかなのはわたしかもしれないね。
 ずっと言えなかった。ずっと言ってやれなかった。言ってはいけないのだと口を噤み続けていた。わたしはお前に酷いことを言ったね、言ってしまったね」

 掻き抱かれ、ぐしゃりと乱された後ろ髪に美由は「にいさん?」と稚く首を傾げる。
 返事は濡れた深呼吸。

「──ありがとう。
 わたしを想ってくれて、わたしの幸せを願ってくれて、わたしの幸せを守ろうとしてくれて、ありがとう。
 今日は流宇のことも守ってくれたんだね。嫌いな子なのに、一所懸命守ろうとしてくれたんだね。ありがとう」

 美由は流宇を殺しかけた。殺そうとした。それはいけないことだ。
 美由は渚も殺そうとした。それはいけないことだ。
 とても、とてもいけないことだ。
 決して褒められることではない、その全部を優は。

「お前がわたしに向けてくれる愛情を、心から喜び、感謝しているよ。わたしは幸せな兄だ」

 はらり。
 はらり、はらはらと、美由の頬を伝うもの。

「兄さん、嬉しいの?」
「ああ」
「兄さん、幸せなの?」
「ああ」
「………………よかった……」

 美由の全身から力が抜けて、彼がそのまま崩れ落ちようとするのを優の腕が支える。
 美由は嗚呼、と今までの嘆きを洗い流す。
 好きだ、この世で最も愛している。
 好きなもの、大事なもの、必要なもの、便利なもの。
 欲しいものはなに? なんでもしてあげよう。
 さあ、受け取って。喜ぶ顔が見たいだけ。
 大好きだ、この世で唯一のひと。
 幸せであれないのならば、その手伝いをさせて。
 何もかも上げよう。優の欲しいもの全部。
 砂漠にあるという一粒の砂金だって見つけてあげる。
 もういらない、もう十分というのならその手を握りしめさせて。
 嬉しい? うれしい? しあわせか?

「あたしも……いいえ、あたしが……っしあわせなの……!」

 自己満足でしかなくて、自分のためでしかなくて、それでも優を想った美由の歪んだ献身は実ったのだ。実っていたのだ。
 美由はずっと、ずっとずっとそのことに気づかずにいたけれど。
 わらって。
 わらって。
 わらわないで愛しい弟、と優は重ねる。
 そんな悲しいことで笑わないで、と。

「もういいよ」

 似合わないことをしていた。
 似合わないことをし合っていた。
 とても、双子らしいことをしていた。

「はんぶんこは、もうやめよう」

 片方が片方のために寂しい場所へ沈むような、そんな悲しいはんぶんこは、もうやめよう。

「うん」

 静かな首肯に睫毛のきらめき。
 静かに降り積もる幸福は、溢れる涙のように。
 美由は声を上げて泣いた。
 嬉しいと、幸福であると、叫ぶように泣いた。


「──なによそれ」


 ゆらり、渚が立ち上がる。
 愕然とした表情は色を変えるように憤怒へ染まる。

「なによ、なによなによ、なによそれ! なんだっていうのよ!!」
「喧しい子だね」
「ふざけんじゃないわよっ、なんで? 美由は可哀想でなきゃいけないのよ! アタシと同じようにっ。そうでなきゃ、そうでなきゃアタシだけが……ッ」

 掌で顔を拭った美由は、ひどく冷めた顔で吐き捨てる。

「同一視はやめろと言ったはずよ」

 渚の愕然とした表情はきっと場違いだ。勘違いだ。
 なんで、とこの期に及んで渚は繰り返す。
 美由に自己投影し、自分のやり方で過去の失敗を成功で塗り替えようとした渚は、目の前で見せつけられた「掴みそこねた形」に震える。

「どうしてあんただけが幸せになるの……?」
「お前とこの子が別人だからだよ」

「兄」である優の告げる決定的な言葉によろめく渚に、美由は一瞬、ほんの一瞬だけ浮かべてしまう。
 哀れみを。

「っそんな目でアタシを見るなァァッッ」

 猛獣のように飛びかかってきた渚から美由を優が庇うも、三人はもつれるように床へ倒れ込む。
 叫び声を上げる渚ががむしゃらに振り回す手。包帯も解け、血まみれになった手。
 その手から飛び散った血が、ほんの小さな差異となった。
 目に入った血に思わず瞼を閉じた優と、血を受けることなく青い目を露にしていた美由。
 振り上げられた渚の手。
 その爪が、美由の右目に。

「──美由!!」

 半分暗くなった視界と激痛のなか、美由は優の叫び声を初めて聞いた。


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