小説
十七話



 渚は走っていた。
 廊下を走っていた。
 廊下を走ってはいけませんなんて、そんな標語知らない。知ったことではない。それどころではないのだ。

「なんで、なんでなんでなんでなんでっ」

 息を切らせながら、それでも懸命に走る渚が僅かに後ろを振り向けば、一人の青年が一定の速度で追いかけてきている。
 おかしいではないか。
 渚は走っているのに、どう見ても相手は歩いている。それなのに振り切ることができない。おかしい。おかしい。異常だ。気が狂っている。誰の? 自分の? 相手の?
 脳に酸素が足らなくてなにも分からない。分かりたくないのかもしれない。どちらでも同じだ。答えは出ない。
 ひょっとしたら見えている相手の姿だって幻なのかもしれない。幻であってくれ。一時の悪夢であってくれ。早く目が覚めればいい。早く。早く。
 早く!

「逃げないと捕まえちゃうわよう」

 現実だ。
 聞き覚えのある声が聞いたことのない間延びした口調で追い立てる。
 どうして逃げなくてはいけないのだろう。捕まったらどうなるのだろう。
 分からないのに渚は逃げているし、絶対に捕まりたくないと思っている。
 そも、どうしてこんなことになったのだろう。
 北島渚の人間性は歪だった。
 物心ついたときから双子の兄、潮を愛していた。男として愛していた。渚も男だけれど、性愛の対象として見ていた。恋慕の情を捧げていた。
 けれども潮の恋愛対象は当然のように渚ではなくて、当然のように別の相手へ恋をして、渚が遠ざけようとしてもその恋心を消すことはできなくて。

(でもでもでもでも兄さんは怒らなかった、あの女を殺そうとしたアタシを怒らなかった、だからアタシは正しいの、間違っていないの、それなのに兄さんは振り向いてくれなくて? え? それならやっぱりおかしいのは……あああ違う違う間違ってなんかいない)

 葛谷学園へと転入して織部という双子の存在に渚は惹かれた。
 だって、とても歪であったから。
 双子の兄の優は流宇という青年を傍に置いて、とても、とても愛おしそうな眼差しを向けている。
 双子の弟の美由は、そんな兄を悲しげに、もどかしげに見つめ、流宇へ殺意を滲ませていた。
 自分と同じだ。自分とそっくりだ。
 そう思った瞬間に渚は美由へ過剰な自己投影を始める。間違いを探すなら、きっとそれが間違いであったのだ。
 けれども、だからこそ渚は理解できない。
 流宇に死んでほしいと思った。あの女にしたように死んでほしいと思った。
「今度こそ幸せになるために」流宇に死んでほしかった。
 そうしたら、どうして、何故。
 美由が自分に殺意を抱いて追いかけてくるのか、渚には欠片も理解できなかった!
 足音が近い。
 やけに響く。
 そうだ、人がいない。
 さっきまで人気があったのに、いつの間にかなくなっている。そういえば外は暗くなり始めている。さっきまでの人の気配もきっと、遅くまで残っている少人数だった。
 人がいない。
 人がいない。
 人がいない。
 渚を追跡者から、美由から助けてくれる人が誰もいない!

「誰か助けて!!」

 虚しく響く悲鳴。

「っふ、ふふ、あはは、あはははははははッッッ!!!!!」

 哄笑が、背後から哄笑が近づく。
 狂ったように。狂っているのかもしれない。正気じゃない。正気の人間があんなに恐ろしいわけがない。

「助けて……誰か、誰か助けてよお……っ」

 咄嗟に飛び込んだ教室。
 一つのドアを閉めたって反対のドアから美由は入ってくる。
 渚は狂乱しながら椅子を掴み上げ、がむしゃらになって美由へ投げつけた。
 がん。
 音を立てて叩き落とされた椅子。そのまま進んでくる美由。
 逃げ惑いながら椅子を投げつける。叩き落とされる。
 投げつける。
 叩き落とされる。
 投げつける。
 叩き落とされる。
 ごきんッ、と鈍い音。
 美由の手首がぷらりと曲がる。
 やった、と思って渚の顔に笑みが浮かびかける。
 これでもう美由は追いかけてこない。これでもう怖い目に遭わなくて済む。そう思って浮かびかけた笑みはすぐに凍りつく。
 一瞬の停滞もなく進んでくる美由。
 折れた片手で薙ぎ払われる机。しまわれた教科書や筆箱が散乱する。
 美由はそれらを踏み越えてやってきた。
 手首が折れているのに。
 痛みなんて感じていないように。
 かくん、と膝から力が抜ける。腰が抜けて立ち上がれない。その間にも美由は距離を詰めて、とうとう渚の喉元に手が触れて。

「──おやめ」

 美由の手がぴたりと止まる。
 いつの間にか涙を流していた渚は、声のほうへ顔を向ける。曇った視界では葛谷学園の制服の海老茶色しか分からない。
 でも、誰がそこにいるのか、呼吸さえも止めた美由の状態で分かる。

「兄さん……」

 息を切らした優が教室へと入り、美由の腕を引いた。
 ふらりと揺れる痩躯が渚から離れる。

「もうおやめ、美由。もう、いいんだよ」

 それは誰も聞いたことがないほどに、やさしい声で。

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